☆ ウィトゲンシュタインの火かき棒事件の謎 ☆

『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』 D.エドモンズ、J.エーディナウ著 二木麻里訳 筑摩書房 2003,1


 本書は、原題が「WITTGENSTEIN'S POKER」(「ウィトゲンシュタインの火かき棒」)で、俗に「火かき棒事件」と呼ばれる哲学史に残る事件の真相を、当時の哲学、世界情勢の解説をまじえながら追及した著作である。ウィトゲンシュタインもポパーもイギリスでは知らない人がいないほどの有名人で、本書も2001年(ウィトゲンシュタインの死後50周年にあたる)に英国で刊行されるやいなや、オンライン書店アマゾンのUKサイトで上位にランクされている。

 ウィトゲンシュタインの火かき棒事件は、1946年10月25日に、ウィトゲンシュタインが議長を務めるケンブリッジのモラル・サイエンス・クラブで開催された会合で、ポパーが講演をしたときにおきた。ポパーの議論に不満なウィトゲンシュタインが苛々したようすで火かき棒を振り回しながら、ポパーに対して「道徳の原則をあげてみろ」と詰問したのに対して、ポパーが「火かき棒で講演者を脅かさないこと(それが道徳の実例である)」と応酬して、怒ったウィトゲンシュタインが火かき棒を投げ捨てて、部屋を出て行ったという事件である。講演が始まってからウィトゲンシュタインが部屋を退出するまで、僅か10分であった。20世紀哲学に巨大な足跡を残した二人の著名なユダヤ人哲学者が出会ったのはこの10分間だけだった。この事件は、様々な解釈や脚色がなされ語り継がれてきた。フランスはウィトゲンシュタインがあまり評価されていない国であるが、それでも、ドミニク・リクールがこの事件を題材に「ポパーとウィトゲンシュタイン」(翻訳が国文社から刊行されている)を書いている。

 著者はBBC所属のジャーナリストである。さすがに、話の進め方、纏め方が巧い。火かき棒事件の真相を追うというドキュメンタリータッチで話を進めながら、20世紀哲学の主要潮流とその中での二人の哲学の位置付け、事件の背景にある二人の気質の違い、二人の経歴の差、ユダヤ人を巡る20世紀の出来事などを手際よく纏め、読者を飽きさせない。ウィトゲンシュタインやポパーの名を聞くのは初めてだという人でも興味深く読めるだろう。

 ただし、本書がウィトゲンシュタインとポパーを公平に審判しているかというと疑問である。読者は、ポパーが「火かき棒で講演者を脅かさないこと」という気の利いた台詞で傲慢なウィトゲンシュタインに応答したというのは、ポパーのでっち上げに過ぎないと早合点してしまうかもしれない。また、両者の対決の原因は、ウィトゲンシュタインのカリスマへのポパーの嫉妬だと思い込まされてしまうかもしれない。しかし、ポパーの堅実な哲学とウィトゲンシュタインの奔放な哲学とは水と油である。ポパーが一切の私情を排したとしても、二人が出会えば激論になるのは避けられなかったのである。本書はウィトゲンシュタイン死後50年の記念行事の最中に刊行されたものであり、全体としてウィトゲンシュタインを称えるという色彩が強い。読者は、その点に留意して読む必要がある。

 訳も大変よく読みやすい。ただ、「puzzle」を「謎」と訳すのは賛成しがたい。「謎」と訳したために、ウィトゲンシュタインは「哲学にはまともな問題などない。謎があるだけだ。」と主張したことになっている。ウィトゲンシュタインが「哲学にはまともな問題はない」と考えていたのは事実である。しかし、あるのは「謎」だけだと考えていたというのはウィトゲンシュタインの思想を表現するのに適当ではない。ウィトゲンシュタインはこんなことを言っている。「哲学の問題は、私は途方にくれているという形を取る。」ウィトゲンシュタインは、「人はしばしば言葉の不適切な使用により混乱した思考に陥る。哲学的問題とはこの混乱した思考の産物に過ぎない。」と主張してきた。だから、「puzzle」は困惑とか迷路とか訳すほうがよかったのではないかと思う。

井出 薫


(H15/2記)

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