☆ 間接民主制の課題 ☆

井出薫

 パーティー券問題で国民の政治不信が強まっている。もっとも日本の憲政史上国民が政治家に信頼を寄せていた時代などないだろう。

 これは、しかし、日本特有の問題ではなく、民主制の根本的な問題に起因する。直接民主制は巨大化し複雑化した現代国家では実現不可能で、現存するすべての民主制国家は代議制つまり間接民主制を採用している。また、たとえ直接民主制が実現可能だとしても、多数派による少数派の支配になる危険性がある。カントは支配形態としての民主制は必ず専制政治になるから望ましくないと指摘したが、批判したのは間接民主制ではなく直接民主制だった。前世紀、共産主義者たちは直接民主制を目指したがカントが指摘したとおり専制政治に終わっている。それゆえ、現時点では、現実的で最良の民主制は間接民主制ということになる。

 しかしながら、間接民主制には多くの難点がある。まず議員と国民との間に大きな壁がある。規模の小さい基礎自治体でも議員と住民とは互いに顔すら知らないことが少なくない。特に都会ではその傾向が著しく、筆者も顔を知っている市議会議員は一部に限られ、言葉を交わしたことがある者は数人しかいない。これが国家のレベルになると、遠い国に暮らす見知らぬ人くらい疎遠になる。国民はただテレビに映る顔とその発言でしか議員を知ることができず、議員は有力な支援者や議員活動で付き合いのある者しか知らない。そのため、議員と国民との関係は、互いに協力して社会を改善していこうとするものではなく、利害損得に基づく打算的なものとなるか、あるいは(しばしば狂信的になる)思想的繋がりになる。いずれの場合でも、寛容の精神を重んじたうえでなされるべき真摯な討議を阻害し、社会の分断を生み出す。その結果、議員も国民も何が良くて何が悪いか判断することができなくなり、しばしば合理的な思考や議論ではなく、その場の雰囲気で政策が決定されることになる。

 間接民主制は責任の所在においても大きな課題がある。議員や政党が提唱し推進した政策が失敗に終わったとき、その議員や政党に投票した選挙民が責任を問われることはない。もちろん、それは当然のことで、投票した候補者が不祥事を起こしたり、不適切な政策を推進したりしたからと言って、投票者が責任を問われたのでは誰も投票に行かなくなる。だが、そのことが国民の無責任を助長している。民主制なのだから、重要な政策課題を国民投票や住民投票で決定することは悪いことではない。だが、政策や法案を国民投票や住民投票で決めることにはリスクが伴う。英国のEU離脱の国民投票がその例として挙げられる。将来、EU離脱は失敗だったと英国民が悟る時が来たとしても、離脱に賛成票を投じた者が責任を問われることはない。だから、様々な意見に耳を傾け、よく考えたうえで投票するのではなく、その場の雰囲気、私利私欲や独善的な判断に基づき投票することになる。このような国民の無責任は議員の無責任に繋がり、それが再び国民の無責任を助長する。まさに悪循環が生まれている。

 行政の長は議会または選挙で選任されるが、行政事務を取り仕切っているのは民主的手続きを経て選任されたのではない官僚たちだ。法律を作るのは議会で、行政は法律に従って行政事務を執行する義務がある。その意味では憲法が謡うとおり国会こそが国権の最高機関であり、そこに国民主権の証をみることができる。しかしながら、抽象的な法律を具体的な事案に適用し行政事務を執行するのは官僚たちであり、法律の解釈や適用に当たっては行政裁量が広く認められている。特に日本では、議員に政治的素人や法律に不案内な者が多いこともあり、法案の8割は内閣提出法案であり、立法においても官僚の影響力が極めて大きい。議員提出法案が多い英国や大統領が官僚の上層部の人事を決める米国では議員の力が日本よりも強いが、それでも行政を中心に官僚の力が大きいことに変わりはない。間接民主制においては議員の数は限られており、米国のように議員が多数の有識者を抱えていても、行政事務とそれに関連する社会環境を熟知している官僚には太刀打ちできない。その結果、大規模化・複雑化している現代の民主制国家の多くが行政国家化・官僚主義化し民主制が形骸化している。

 間接民主制にはこのように多くの欠陥がある。だからと言ってパーティー券問題に代表される自民党の政治腐敗を容認する気はさらさらない。筆者は、この状況を改善するには政権交代が不可欠だと考えている。しかし、民主党政権が失敗に終わったように、自公連立政権を政権の座から追い出すだけでは政治は改善されない。自民党の腐敗とそれに伴う政治不信の深化は自民党の長期支配の弊害という面だけではなく間接民主制そのものに内在する欠陥に起因している面があるからだ。

 では、間接民主制の欠陥を改善するためにはどうすればよいか。巨大な国家において、議員と国民の壁を低くすることは容易ではない。ルソーは、大国は君主制、小国は民主制が相応しいと論じた。国家はルソーの時代よりもさらに遥かに巨大化し複雑化している。この課題を克服するには議員と政党が自らに批判的な者を含めて広く国民との積極的な対話を試みる必要があり、国民はもっと政治に関心を持つ必要がある。さらに報道機関が、広く様々な政治課題について情報提供に努めることが望まれる。今はネットが普及しており、様々なメディアで情報提供できる。また、公平な立場で大量の情報を適切に纏める論者が欠かせない。現段階ではまだまだ欠陥が多いがAIの活用も情報整理に有効だろう。さらに、教育現場、職場、地域社会などで国民の政治参加の機会を増やし、国民が積極的に政治参加し、参加が難しい者や気が進まない者も政治にもっと関心を持つようにすることが強く求められる。それにより国民の政治意識を高め、政治を他人事ではなく自分の課題として考えることができるようになる。行政国家化の問題は解決が難しい。地方分権をさらに拡大することが一つの対策だが、弊害もあり安易に進めることはできない。ただ、ここでも国民の政治参加の意識が高まることが道を開く。いずれにしろ、制度改革や政治家の意識改革が欠かせないとは言え、最終的には国民の政治意識の向上が政治の改善の鍵を握る。


(2023/12/27記)


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