☆ リベラルの行く末 ☆

井出薫

 従軍慰安婦と福島原発事故の吉田調書を巡る朝日新聞の誤報が波紋を呼んでいる。歴史的、社会的に重要な事件であり、朝日は責任を免れない。朝日の姿勢を批判した池上の記事の掲載を拒否したことも重大な問題だろう。

 しかし、鬼の首を取ったかのように朝日を攻撃し、従軍慰安婦問題で日本には非がないかの如く論じ、朝日が日本の信頼を傷つけたと言い立てる一部の保守派の言論は明らかに間違っている。強制連行の証拠がなかったとしても、従軍慰安婦の存在は紛れもない事実だ。敵国の軍隊の慰安婦を務めなくてはならなかった女性たちにとって、それは屈辱以外の何者でもなかったはずだ。強制連行の証拠があるか否かに関わりなく、日本には重い責任がある。日本の信頼を傷つけたのは朝日ではなく、戦前の日本の誤った政策だ。朝日をひたすら攻撃している者たちはそのことを理解していないか、隠している。

 吉田調書について言えば、原発事故という極限状態の中、事故拡大を防ぐために命がけで奮闘した現場作業員たちを侮辱した朝日の罪は重い。しかし、朝日が事故を引き起こし訳でも、事故処理が遅々として進まない原因になっている訳でもない。ここでも、朝日を叩くことで、一部の保守派は、根拠に乏しい原発の安全神話をばら撒き、後処理が遅れていることの責任を有耶無耶にしようとしている。

 いずれにしろ、朝日の誤報と、日本の戦争責任、原発事故の責任とは全く別の次元の話しであるにも拘らず、それに気付かずあるいは意図的に混同しようとしている者たちの言動には警戒が欠かせない。物事の本質を見極めたうえでの健全な批判は社会を良くする原動力になる。しかし朝日を執拗に攻撃する者たちの言動はそういうものからほど遠い。

 しかし、その一方で、朝日の姿勢に問題が多いことも見逃せない。そして、それは、かつて朝日岩波文化人などと称された戦後日本のリベラル、革新に共通する欠点でもある。前世紀の60年代から70年代初めに掛けて中国では文化大革命の嵐が吹き荒れた。今でこそ、それは理想の共産主義社会を目指すものではなく、権力闘争であり、不毛な権力闘争のために中国の発展が10年以上遅れ、しかも夥しい数の犠牲者を生んだことは周知の事実となっている。しかし、当時の朝日は、四人組を筆頭とする文化大革命派の発表を鵜呑みにし、文化大革命を理想社会の実現を目指す運動として称賛した。そして、多くの革新、リベラルの文化人たちがそれに同調し文化大革命の中国を好意的に論評した。こういう事実とその背後にあるメンタリティーを反省することなく継承してきたことが今回の誤報に繋がっている。

 リベラルは、戦前の日本を厳しく批判し、日本人に反省を促す。そのこと自体は(保守派からは異論があるだろうが)間違った行動ではない。日本を愛することと日本を賛美することとは違う。日本を批判することと日本を嫌うこととは違う。愛するからこそ批判しないといけないことがある。日本を世界の人々から信頼される国にするためには、日本の誤り、悪い点は自ら正していかないとならない。「日本は素晴らしい」、「日本人にはとてつもない力がある」などと言っているだけでは少しも良くならない。しかし、批判し、人々に反省を促すためには、とことん真実を追及し、常に自分の思想や信念が正しいかどうかを点検することが求められる。たとえ自分の思想信条にとって都合が悪いことでも、それが事実であれば受け容れ、自分に都合が良い話しでも安易に信じることをせずにしっかりと検証する。こういう姿勢が欠かせない。だがリベラル、革新は、「自民党、米国、資本主義、戦前の日本、保守、改憲、原発推進」=悪、「リベラル・革新、反米、社会主義・共産主義、戦後民主主義、革新、護憲、原発反対」=善、こういった類の単純な二項図式にずっと囚われてきた。そして、今もその図式から完全には免れていない。そのために、あらゆる出来事がこの二分法の中で安直に評価され、善に分類されることは肯定され、悪に分類されることは否定される。意見を異にする保守との対話の道は閉ざされ、健全な懐疑と批判精神、実証的精神が育まれる機会を失う。だから過ちを犯しても気が付かない。文化大革命の本質を適切に評価できなかったことがその典型例だったと言える。

 確かに、人間の能力は極めて限られており、あらゆる出来事を吟味し公平に評価することなどできない。だから判断の枠組み・尺度のようなものを誰もが持っており、それに当てはめて物事を判断している。そのために独善的な判断がしばしば生じることは避け難い。だが、他者の、特に自分と思想信条の異なる者の意見に耳を傾け、冷静に議論をすることで、限界を超えることはできる。また、常に自らの思想や信念を自ら疑うことで独善に陥ることを極力回避することもできる。しかし、リベラル、革新にはそれが欠けていた。おそらくそのことは多くの者たちが感じ取っていたに違いない。デリダの脱構築が、一部の者たちに限定されていたとは言え、日本でも一時期かなり評判になったことからもそれが窺える。デリダの真骨頂は硬直した二項図式の絶え間ない組み換え(脱構築)の試みにあるからだ。しかし、それが硬直したリベラル、革新を変えることはなかった。

 その一方で、これらのことは、一部の保守にも丸ごと当て嵌まる。先にあげた二項図式で善悪を入れ替えると、ここで述べてきたことはほとんどそのまま保守にも的中する。朝日も、朝日を糾弾する者たちも、その思考方法の本質はさほど変わらない。だからこそ、思想的立場の違いだけではなく、近親憎悪的に、お互いに憎悪が募ることになるのだろう。

 要するに、リベラル、革新だけが悪い訳ではない。しかし、戦後長く、日本の言論界で大きな勢力を占めていたリベラル、革新が衰退しつつあることは間違いない。そもそもリベラルや革新は権力を握っていないということを別にしても、たいていは不利な立場にある。リベラルや革新はその思想的な立場から、現状に対して懐疑的、批判的になる。そしてそこにこそ価値があるとも言える。そのため、社会が混乱したり、他国との間に揉め事が起きたりすると、人々はしばしば民族主義的になり、リベラルや革新の批判が疎ましく思うようになる。冷静に分析し、適切な批判をしている者に対しても、「日本人のくせに、そんなに日本の悪口を言うのが楽しいのか」、「日本がそんなに嫌いならば、なぜ日本で暮らしている。さっさと出ていけ」などという感情的な非難が浴びせられるようになる。しかし、リベラルや革新はそれを乗り越え、勢力の挽回を図っていかなくてはならない。そのためにも、リベラルや革新には健全な懐疑精神、批判精神、意見を異にする者たちとの対話と討議が強く求められる。

 リベラルや革新が正しく、保守は間違っているなどと言うつもりはない。健全な社会を作り維持するためには、健全な革新、リベラル、保守が並び立ち、互いに冷静かつ相手に敬意を表しながら論争することが望ましい。今、革新とリベラルが後退し、保守それも反動とも言える立場の者たちの発言権が増しているように感じる。その背景の一つには、中国と韓国の目覚ましい躍進がある。そして、両国の発展はこの先も続く。つまり、これから先、益々反動的な保守が台頭し、リベラル、革新が後退することになりかねない。しかし、それは確実に調和を失った不健全な社会をもたらす。健全な社会を作り維持するためにも、リベラルは変わらないといけない。朝日の失敗からそれを学び取ってもらいたい。

(補足)リベラル、革新、保守を問わず、ここで述べたような硬直した態度ではなく、柔軟で寛容の精神、対話の精神に満ちた者たちがたくさんいたし、今でもたくさんいるに違いない。しかし、メディアが普及した結果、極論を述べる者たちが、メディア的にインパクトがあり、読者、視聴者の耳目を集めることになる。その結果、柔軟で健全な精神の持ち主が評価されにくくなり、その言論が紹介され検討の対象とされる機会が少なくなる。ここにも現代社会の病理を指摘することができる。


(H26/9/14記)


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