☆ うつ病対策 ☆

井出薫

 日本の自殺者数は高水準で推移しているが、景気悪化でさらに拍車が掛かるのではないかと心配だ。

 自殺と言うと「うつ病」という言葉がすぐに思い浮かぶが、このステレオタイプな発想は正しくない。自殺者のすべてがうつ病ではないし、うつ病患者がすべて自殺を考えるわけではない。世間で言うほど自殺者の中でうつ病患者が占める割合は多くはないと考える。とは言え「うつ病」対策が極めて重要な課題であることは間違いない。

 ところが肝心の「うつ病」の正体が解明されていない。そもそも「うつ病」なる独立した疾患が存在するのか、それとも単に「うつ症状」なる症候群が存在するだけなのか、この点だけでも専門家の意見が一致しない。「風邪」は独立した疾患単位ではなく、「風邪症候群」という症状の集合に過ぎない。悪寒、発熱、だるさ、クシャミ、咳、鼻水、のどの痛み、頭痛などこういう一連の症状が観察できる時、人はそれを便宜的に「風邪」と呼ぶ。だがそれは疾患単位ではない。正式な疾患としては様々なウィルス感染や細菌感染などが挙げられ、その徴候として風邪症候群が現れるだけなのだ。では「うつ病」はどちらなのか。それがはっきりしない。「うつ病」という疾患単位が存在するというのが一応定説になっているが、「風邪」と異なり発熱や咳や喉の炎症など明確に外部から観察できる症状がある訳ではなく、血液検査やCTなどの諸検査で診断の決め手となる特徴が現れることもない。事実、うつ病の診断は曖昧で、患者の話し方一つで、あるいは医師のさじ加減一つでどうにでも転ぶところがある。特定の患者をある医師は「うつ病」だと診断し、他の医師はうつ病ではないと診断することは珍しくない。さらに「うつ病」と言っても様々なタイプがある。気分の落ち込みが激しく自罰的・厭世的になり、発病期並びに回復期に自殺の危険性が高い典型的うつ病もあれば、近頃うつ病セレブなどと揶揄される「うつ病」という診断書をもらって病休中に海外旅行するなどというおよそ古典的うつ病像から外れたうつ病もある。また専ら身体的な症状だけで気分の落ち込みがほとんどないタイプもある(こういうタイプは抗鬱薬が効果を現したとき初めてうつ病と診断される)。また躁鬱病や統合失調症と判別が難しい症例も少なくない。うつ病の治療法と言えば第一に抗鬱薬の投与となるが、抗鬱薬の効果がない患者もたくさんいる。

 こうした不可解な現象が生じる原因は、言うまでもなく、うつ病の正体が解明されていないことにある。その結果「うつ病」の確実な診断法も治療法も予防法も確立できていない。抗鬱薬が効くかどうかがうつ病の判断基準だという強引な意見すらある。だが典型的なうつ病患者で抗鬱薬の効果がないこともあるし、抗鬱薬の種類によって効果がまるで違うこともあり、この基準も当てにはならない。

 「うつ病」の正体が分からない以上、私たちは手探りで対策を練っていかなくてはならない。現時点で私たちにできることと言えば、周囲に元気がなく体調不良を訴える者がいたら労わり医師や臨床心理士に相談するよう勧めること、自分自身に思い当たるところがあれば無理をせず医師の診察を受けること、そういうことが周囲に気兼ねなく出来る環境を整えること、これくらいだろう。いずれにせよ、この正体が分からない「うつ病」なるものが患者本人には勿論のこと社会に大きな影響を与えている。やはり一日も早く「うつ病」の生物学的な基盤とその環境との相互関係が解明されることが望ましい。そのためには脳科学的な研究は勿論のこと、プライバシーに十分注意しつつ、一般内科医、精神科医、心療内科医、神経内科医、臨床心理士、教育現場の教師や企業の労務管理担当者たちが協力して広範な症例の収集と分析を実施する必要がある。勿論そういう試みは各方面でなされているが、まだ動きがばらばらで十分な成果を挙げているとは言い難い。行政や学会などが中心になってより強力な体制が一日も早く整うことを期待したい。



(H21/1/17記)


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