☆ 『千と千尋の神隠し』と日本(2) ☆

森 有人


 トンネルの向こうは不思議の町でした―。『千と千尋の神隠し』の中で、「千尋」の数奇な体験が際立つほどに、変わらない『千尋』の両親の姿が、一段と鮮明になってくる。「千尋」の努力によって、両親の魔法が解けて、目出度く豚から元の人間の姿に戻る。にもかかわらず、豚の残像が観客の脳裏から離れない。「失われた10年」を経て、低迷を続ける救いようのない日本の経済の現状と、「千尋」の両親と姿は、二重に見えてくる。


変わる風情もない日本=「両親」

 在りえない場所で、在りえないことが起こった・・・。異次元の世界に迷い込んだ「千尋」が逞しく、優しく成長していくドラマは、自分が何者であるか、何をする存在かについて問い続けることの大切さを教えてくれる。「何のために」というファンデーションが不明瞭であるうちは、人も国も社会も右往左往する。本来、それぞれを形つくる組成分が刻一刻と変化する。にもかかわらず、「千尋」の両親は、かつての金満ニッポンの影を残す日本人と日本経済のように変わる風情すら感じない。

 小学生と思しき年齢から逆算すれば、「千尋」はバブル崩壊前後に生まれ、「失われた10年」とともに少女期を過ごしてきた。映画の冒頭のシーンでは、「千尋」一家は、景気対策として異例の「住宅ローン減税」と超金融緩和政策の追い風を受けて、新しいマイホームに越して行く。団塊の世代が、構造調整下の企業リストラで首筋を寒くしているのとは対照的に、この年代層はまだまだ恵まれているのが実情だ。知らない土地に行く不安と不満で愚図る「千尋」に比べ、映画に描かれた夫婦のどことなく浮かれた気分がそれを象徴している。そうした構図は、日本のどこででも、よく見かける情景だろう。

 「敗北を抱きしめて」敗戦から立ち上がった昭和の一桁世代、それに続く、どこに行っても"人口稠密£n帯の中で人を蹴落とさなければ浮かばれないゼロサム競争に明け暮れた団塊の世代。これらの世代に共通する貪欲さが希薄な父母。「八百万の神々」の食事を無断で貪り「豚」にされてしまっても、観客は同情すらしないだろう。むしろ、当然の報いのように、スクリーンに大写しになった二頭の豚を冷ややかに見つめたのではないか? 全編を通じて、悪人が皆無といっていいこの映画の中で、唯一の現実的かつ醜悪な登場人物が、この両親でもある。
豚にでも希望があるはずだが・・・

 『千と千尋』ほど、怠惰な人間の象徴として豚を扱った作品も珍しい。キリスト教始め、西欧宗教の世界では、豚は蔑視の対象として扱われてきた。日本でも「豚に真珠」の格言が示すように、無能の代用語になっている。一方、豚を擬人化した小説、映画は少なくないが、むしろ作品の中では愛すべき、憎めないキャラクターとして豚が登場する。映画でいうと、ディズニーの『ベイブ』は勇敢な子豚のストーリーだった。ジョージ・オーウェルのSF小説『動物農場』では、乱戦の末に農場から人間を叩き出し、理想主義者(豚)のスノウボールを中心に平等な共同体建設を目指し挫折する。そこでは豚を擬人化することで、権威主義的なスターリニズムを批判している。しかし悲劇的な結末を描きながらも、「動物たちは、決して希望を捨てなかった。動物共和国は、いまだにその到来が信じられていた。いつの日か必ずやってくるであろう」と、作者は豚の将来を、理想と期待を込めて予言しているほどだ。

 『千と千尋』の最後に映し出された、異次元で働く友人たちの快哉に見送られる「千尋」の姿に、明るい将来の予兆を感じさせる。だが、「勝手に、居なくなっちゃだめじゃい!千尋」と叱りながら、元来たトンネルに向かう両親の能天気さは、やはり古典的な蔑視の対象である豚の姿そのものである。この映画がどこまで日本の経済と危機感のない日本人の姿を意識して作られたかは、定かではない。「失われた10年」の後遺症の大きさは、21世紀に突入後も増幅している。バブル崩壊後の景気循環の調整はすでに、1993年秋に完了。現在のデフレには、国際競争力の低下を始めとする構造的な変化と、循環的な需要の低迷が同時に進行した価格の低落現象という側面がある。そこでは、政策の誤謬に加えて、日本人と企業の慢心、驕りそして希薄な危機感も影響している。

 「呼んでいる胸のどこか奥で いつも心踊る夢を見る」−。『千と千尋』の主題歌の一節だが、そんな夢と希望は、この国の大人の世界には見当たらない。そういいたげな、なんとも切ない映画でもある。ちなみに、筆者は、「千尋」の両親と同世代。せめて豚と指を指されないようにと努力しているつもりだ。



(H15/2/11記)

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