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変わる風情もない日本=「両親」
在りえない場所で、在りえないことが起こった・・・。異次元の世界に迷い込んだ「千尋」が逞しく、優しく成長していくドラマは、自分が何者であるか、何をする存在かについて問い続けることの大切さを教えてくれる。「何のために」というファンデーションが不明瞭であるうちは、人も国も社会も右往左往する。本来、それぞれを形つくる組成分が刻一刻と変化する。にもかかわらず、「千尋」の両親は、かつての金満ニッポンの影を残す日本人と日本経済のように変わる風情すら感じない。
小学生と思しき年齢から逆算すれば、「千尋」はバブル崩壊前後に生まれ、「失われた10年」とともに少女期を過ごしてきた。映画の冒頭のシーンでは、「千尋」一家は、景気対策として異例の「住宅ローン減税」と超金融緩和政策の追い風を受けて、新しいマイホームに越して行く。団塊の世代が、構造調整下の企業リストラで首筋を寒くしているのとは対照的に、この年代層はまだまだ恵まれているのが実情だ。知らない土地に行く不安と不満で愚図る「千尋」に比べ、映画に描かれた夫婦のどことなく浮かれた気分がそれを象徴している。そうした構図は、日本のどこででも、よく見かける情景だろう。
「敗北を抱きしめて」敗戦から立ち上がった昭和の一桁世代、それに続く、どこに行っても"人口稠密£n帯の中で人を蹴落とさなければ浮かばれないゼロサム競争に明け暮れた団塊の世代。これらの世代に共通する貪欲さが希薄な父母。「八百万の神々」の食事を無断で貪り「豚」にされてしまっても、観客は同情すらしないだろう。むしろ、当然の報いのように、スクリーンに大写しになった二頭の豚を冷ややかに見つめたのではないか? 全編を通じて、悪人が皆無といっていいこの映画の中で、唯一の現実的かつ醜悪な登場人物が、この両親でもある。
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