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3月14日、20世紀を代表する哲学者の最後の一人、ハーバーマス氏が亡くなった。96歳だった。 ハーバーマスを知ったのは80年代、ポストモダニズムが流行した時期だった。70年代後半、ソ連や中国の実情が広く知られるようになり、言論界で圧倒的な影響力を誇っていたマルクス主義への失望が広がった。学生時代の筆者もその一人だった。代わって台頭したのがフランス現代思想を土台とするポストモダニズムで、マルクスに代わりニーチェが言論界のヒーローに躍り出た。しかし筆者は不満だった。ポストモダニズムには様々な潮流があったが、総じて議論が雑で、数学や物理学の知識が誤用されることが多かった。たとえばゲーデルの不完全性定理は数学の不完全さを証明したなどと言う者がいた。だが不完全性定理は形式化された自然数論の体系に決定不可能な命題が存在することと、体系内で体系の無矛盾性が証明できないことを証明したもので数学の不完全さを示すものでは全くない。自然数論の無矛盾性はゲンツェンにより数学的に厳密な手法で証明されている。ニーチェが偉大な哲学思想家であることは認めるに吝かではないが、彼には民主主義を嫌い男女平等思想を嘲笑する反動的な側面が間違いなく存在する。マルクスにも批判すべき点が多くあるが、それでもニーチェよりはマルクスの方が健全だと筆者には思えた。 ポストモダニズムが日本だけではなく世界的に流行をみる中、これに抗ったのがハーバーマスだった。モダニズムは未完のプロジェクトであり、ポストモダニズムはモダニズムの核心を理解していないと指摘する。問題は合理性の意味だった。近代を脱魔術化・合理化の過程と捉えたのがマックス・ウェーバーでハーバーマスもこれに基本的に同意する。だが、20世紀のモダニズムは合理性が持つ二つの側面のうち一つを過度に強調しているとハーバーマスは考える。それは目的合理性という意味での合理性だ。これは目的を定め、科学的な思考と実践で目的達成のための手段を決定し実行する。この過程では近代的な自然科学とその応用としての技術が決定的な役割を果たす。この意味での合理性の極致がマルクス主義だった。人間の社会と歴史を科学的に解明しそれに基づき社会を改造して理想社会を実現する。それがマルクス主義者の夢だった。しかしそれは失敗に終わる。マルクス主義に基づく共産主義運動では、「人間は目的であり手段として用いてはならない」というカントの教えが守られず、人命が尊重されず人権が無視された。典型がスターリンでありポルポトだった。ハーバーマスもマルクス主義の欠陥は十分に理解していた。だが、それはポストモダニズムが批判する合理化の過程としてのモダニズムに起因するものではなく、合理性が持つもう一つの重要な側面を看過することにあった。合理性には目的合理性だけではなく対話合理性という側面がある。対等な立場で人々が集い徹底的に討議し合意形成を図る、これが対話合理性だ。そこでは科学技術よりも他者への共感、寛容、熟慮、自由、平等、情報公開が重視される。科学技術を活用することで富を増進することができる。事実20世紀は産業が飛躍的に拡大し人口が急増した。しかしそれだけでは平和で誰もが穏やかで豊かに暮らせる世界は実現しない。対話合理性が十分に発揮されてこそそれが実現する。 独裁的な為政者が増え世界で権威主義が蔓延する現在、ハーバーマスの思想の重要性は確実に増している。私たちはそれを継承する必要がある。 了
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