☆ 出会いの一冊 ☆


 マルクスの哲学思想を解説した三浦つとむ著『弁証法とはどういう科学か』が文庫版と電子書籍版で販売されている。この本の初版は前世紀の56年、マルクス主義が言論界を席巻していた時代の本になる。本書はその後、改訂版が68年に出版されている。それでも半世紀以上前のことになる。それがいまだに売られているとは、正直驚く。当時、マルクス主義哲学を論じた本は多数あり本書もその一つに過ぎなかった。ただ、当時マルクス主義者に広く支持されていたレーニンや毛沢東の思想を、マルクスとエンゲルスの哲学思想から逸脱しているとして批判的に論じている点に特徴があった。それが今でも売れている理由かもしれない。しかしながら、この本はマルクスというよりも、エンゲルスの著作、特に『自然の弁証法』に強く影響を受けており、現代的な感覚からすると、古いと言わざるを得ない。当時、『自然の弁証法』はマルクス主義哲学者だけではなく、左翼系知識人特に自然科学者に多くのシンパがいて、まさに一世を風靡していた。湯川秀樹、朝永振一郎と共に日本の素粒子論研究の三巨頭と称された坂田昌一もその一人だった。坂田は、二中間子論、ハドロンの複合模型、ニュートリノ振動など多くの業績を残しノーベル物理学賞の候補だったが、59歳で急逝し受賞はならなかった。2008年のノーベル物理学賞受賞者の小林誠、益川敏英は坂田の弟子にあたる。しかし、エンゲルスの『自然の弁証法』は、ヘーゲルの観念論的な弁証法を唯物論的に転換した著作として当時は持て囃されていたが、「自然は弁証法的に運動・発展している」という観念論的な思想傾向が強く、今ではマルクス主義者の評価も高くない。マルクスは盟友エンゲルスの著作を好意的に評価することがほとんどだが、この著作については評価を保留している。マルクスは弁証法を、世界を科学的に説明する理論というよりも、科学的に世界を認識するための方法とみなしていた。自然が(そして自然の一部としての社会が)弁証法的に運動・発展しているというエンゲルス的発想はスターリンに継承され、スターリン時代には標準的なマルクス主義哲学思想とみなされていた。しかし、それはマルクスの哲学思想とは相容れない。むしろ、精神を物質と言い換えただけのヘーゲル的概念弁証法の亜種でしかない。それゆえ、三浦の本は古く、現在価値は乏しい。

 三浦つとむはマルクス主義の哲学者、言語学者で、本書のほか『日本語とはどういう言語か』がよく読まれていた。こちらも今でも文庫版が売られている。筆者は言語学の素養が乏しいので評価できないが、専門家からは日本語論としては古いと言われている。いずれにしろ、三浦が亡くなったのはベルリンの壁が崩壊した89年(78歳没)で、内容が古くなるのは致し方ない。

 それでも、三浦つとむの『弁証法とはどういう科学か』がいまだに売られていると思うと、感慨深い。筆者がマルクスやエンゲルスの哲学思想に興味をひかれたのは高校時代、本書に出会ったからだった。書店で何気なく手にして始めは買う気はなかった。だが、長時間立ち読みをしていたこともあり、何も買わずに店を出るのは憚れた。だから、この本を購入した。そしてすぐには読まず、部屋に積んでおいた。なぜ、読む気になったのかは記憶が定かではない。だが読みだしたら面白くなり、この類の本は読み終わらずに投げ出すことがほとんどだったのに、最後まで読み通した。多分、物理学に傾倒していた当時の筆者の自然観に合うところがあったからだろう。そして、マルクスとエンゲルスの哲学思想に魅了された。それをきっかけとして、マルクス、エンゲルス、レーニンなどマルクス主義系の本を買い漁り、理解するのにとてつもなく苦労しながら、多くの著作を読破した(正直言えば物理的には読破したが理解できなかったことが多かった)。筆者はあくまで哲学思想としてマルクス主義に興味を抱いただけで現実の政治への関心は乏しく学生運動などに参加したことはない。それでも、若いころは左翼思想の政党や政治運動を支持し、選挙では必ず左翼政党に票を投じていた。

 その後、ウィトゲンシュタインなどほかの哲学思想家に関心が移り、マルクスやエンゲルスへの共感は薄れた。今では選挙でも左翼政党ばかりに票を投じているわけではない。それでも、依然としてマルクスの哲学思想は筆者の思考方法や政治的問題への関心において強い影響力を保っている。そして、それはすべて三浦の本と出会ったからだと言わなくてはならない。もし、三浦の本と出会わなければ、マルクスに関心を持つこともなく、いまごろ自民党や日本維新の会の支持者になっていたかもしれない。

 名著か否かに関わらず、人生に大きな影響を与える本がある。三浦の本も名著かどうかは疑わしい。だが、筆者の人格形成に与えた影響は決定的なものだった。ただ、それが幸運だったか不運だったかは分からない。


(2023/10/15記)


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