☆ 価値とは ☆


 「猫に小判」という諺がある。価値があるものも、それを知らない者には何の価値もないという意味だ。この言葉には、猫は人より愚かで価値を理解しないという含みがある。だから、愚かな者を揶揄するときにこの言葉がしばしば引用される。だが、まったく別の解釈が成り立つ。

 小判に価値を見出し、執着するのは人間だけだという解釈だ。小判の素材である金は食べることもできなければ、柔らかいからいろいろな物を作るのにも役立たない。情報化社会に至り電子回路に欠かせない素材となったが、地球での埋蔵量に比較すると必要量は少なく大半は装飾品や資産運用に使われている。かつては世界で広く貨幣として使われていたが、いまでは金が貨幣として使われることはない。要するに、金は生きるために必要なものではない。猫は小判の価値が分からないのではなく、価値などないから無視している。「豚に真珠」も同じで、豚は真珠などという生きるために何の必要性もないものには見向きもしない。人間が賢いのではなく、むしろ、人間は愚かにも、猫や豚が価値などないことを見抜いているものに幻想を抱き執着する。

 いや、価値がないように見える者に価値を見出したことで、人類は文明を生み出し、大繁栄したのだと言われるかもしれない。だが、地球的視野から見れば、人類の振る舞いは地球を豊かにしたのか?と問われれば、疑問と言わざるを得ない。むしろ「いいえ」が正しい答えだろう。人類の活動は地球環境に巨大な負の影響を与えている。小判や真珠に価値を見出し、それを知らない猫や豚を愚かだという思想は、自らの愚かさを認識できない愚かな人間の愚かな人間中心主義に過ぎない。

 ほかにも類語に「犬に論語」、「馬の耳に念仏」がある。しかし、論語や念仏が必要なのは、人間が富、権力、名声、不老不死などを求めるからだ。犬や馬、猫や豚は、あるがままの自分を認め、自然の摂理に従って生まれ死んでいく。だから論語も念仏も必要ない。阿弥陀如来は一切の衆生を救済する。だが、人間ほど救済しにくい存在はない。だからこそ、法然や親鸞は「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」と説く必要があった(注)。存在を価値づけることは存在を冒涜することだとハイデガーは喝破する。存在に価値秩序などない。人間が恣意的に順序付けているに過ぎない。価値などという概念をやたら使うところに人間の愚かさが表れている。
(注)ここで「善人」とは、自力で真理を体得し解脱できると傲慢にも思い込んでいる者を指す。一方、「悪人」とは、ついつい悪さをしてしまう自分の弱さ、愚かさを知る者を指す。だから悪人の方が救済されやすい。ただ阿弥陀如来の慈悲は無限だから善人も幸い救済される。この世の中、自分が善人だと思い込む者が多い。そして、善人は物事を価値づけ順序付けしたがる。


(2023/9/28記)


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