☆ ビジネスとコミュニティ ☆


 半世紀以上前のことだが、子どもの頃は、色々な品物を街の商店街の小さな店で買っていた。魚屋、肉屋、八百屋、米屋、酒屋、豆腐屋、駄菓子屋、電気屋、呉服屋、家具屋など、顔なじみの店の店主や従業員と世間話をしながら、母親が買い物をしていたのを思いだす。買い物に連れて行ってもらうと、子どもの頃は可愛かった(と言われていた)筆者は皆から声を掛けられ、可愛がられ、ときどき飴やシールなどをもらって喜んでいた。当時は街全体が家族のような雰囲気だった。

 だが、大店舗やチェーン店の規制が緩和され、あるゆる商品を一手に扱い、かつ安価で販売できる大手スーパーやコンビニが駅の傍にでき、昔ながらの商店街から客足が遠のいた。それでも、昔馴染みということもあって、少し高くても、面倒でも、商店街で買い物をしていた。だが、閉店する店が増え、徐々にスーパーやコンビニに足が向かうようになった。さらに、分譲住宅やマンションが立ち並ぶようになり新しい住民が増えた。昔からの付き合いがない新しい住民は値段が安く一カ所で買い物が済む大店舗に向かう。結果、昔ながらの商店街はますます寂れていった。

 市場経済学的に見れば、それは合理的な流れであり、だからこそ大店舗やコンビニに客が集まる。だが代償も小さくなかった。特に古くからの住民にとって、この流れは家族が段々と減っていくようなものだった。ビジネスがコミュニティを飲み込んだ。コミュニティは崩壊し人々の絆は失われた。昔は、塩や醤油、酒などを切らすと隣近所から借りたものだった。小津安二郎の名作『東京物語』でも、原節子演じる未亡人が義理の父母を迎えるために隣人から酒を借りる場面がある。今はそんなことはない。コンビニに行けば、いつでも買える。核家族化、都市化がそれに輪を掛けた。

 社会は進歩している。かつては出来なかったことができるようになり、治らない病が治るようになった。それはビジネスが社会を支配することで実現された。だが、本当にそれだけでよいのだろうか。ビジネスは社会を進歩させ、便利にさせる。その一方で、人々にとって大切なコミュニティは廃れた。公助・自助・共助から共助が消えた。その結果、ビジネスの拡大は同時に政府の役割を増大させる。ビジネスは素晴らしいが、昔ながらの小さな店に買い物客が集い、世間話をして、情報交換し、子どもを可愛がる、そういうコミュニティを復活させる努力も必要ではないだろうか。それがないために、富が増大し便利になり寿命も延びたのに、その割には幸福感が増えない理由であるように感じる。

(補足)
 かつてのコミュニティには、プライバシーの軽視、多様性の否定などの悪しき面もあった。それ故、単純に昔を復活させればよいわけではない。プライバシーの尊重と多様性への寛容を併せ持つコミュニティが求められる。そして、それは可能だと考える。

(2023/3/6記)


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