☆ 協力の限界 ☆


 人間は群れをなして生きる動物だから、本能的に互いに協力する性質を有している。ニーチェが「利他主義など偉くもなんともない、ただの本能だ」と腐したが一理ある。尤もニーチェの主張に同意する気はない。利他的行動は人が社会を形成する上でなくてはならないもので、ニーチェのお気には召さないとしても、私たちのほとんどはそれを評価する。

 ところが利他的行動には限界があるようで、家族、友人など狭い範囲にしか及ばない。その典型が、内輪もめを繰り返す民主党や自民党だ。いずれの党もそんな余裕はないはずだが、利他的本能は働かず、ひたすら自分と身内だけを可愛がる利己主義が罷り通っている。

 政党一つですら容易には協力が成立しないのだから、国家間の協力は一層容易ではない。いや不可能と言わなくてはならない。日本国憲法は国際平和と世界の人々との連帯を高らかに称揚するが、現実は理想通りにはいかない。近隣諸国との紛争は絶えず、平和裏に話し合いで解決しようとするよりも、問題の存在を否定する、軍事力で威嚇するという戦略を取る国が遥かに多い。その所為か、憲法解釈上疑義がある自衛隊と日米安保の支持率は高い。憲法上の理念と現実の乖離を市民が感じ取っている証拠だろう。

 しかし、このままでは人類の未来に希望が持てない。戦争、テロ、環境破壊、はたまた感染症の拡大で日本を含む全世界が危機に見舞われることになる。今ほど、世界の人々の協力が求められているときはない。特に(その説には疑問もあるが)地球温暖化などの環境問題は、諸外国が互いに利他的になって助け合う以外解決策はない。さもないと誰もが自分の利益だけを考えて、他国に排出削減の責任を押し付けることになる。

 しかしながら、絶望的な訳ではない。先の震災のような大規模自然災害が発生し報じられると、多くの人々が支援する。時には、日頃対立しあっている者の間ですら協力が成立することもある。家族や友人、小規模な共同体を超えて人々が連帯し互いに利他的な行動で一致することはありえる訳だ。また、社員数の多い大企業でも、日頃関係が薄い部署の社員同士でも協力関係が成立している。利益追求という一つの目的を共有し、その目的達成が社員共通の利益になるとは、ただ怜悧な計算だけで協力が成り立っているのではない。互いに仲間として協力し合うという暗黙の共通理念がそこには存在している。とは言え、企業や大規模災害時の支援活動などを超えて、目的を共有しない者、日頃見知らぬ者同士の間に協力関係を築くことはやはり容易ではない。人の善意や自然な感覚だけに頼っていたのでは、協力関係は長続きしない。特に日本のように人口が1億を超えるよう国では人々の善意だけでは限れたことしかできない。やはり合理的な制度設計が不可欠となる。

 人々が家族や閉鎖的な共同体を超えて協力し合う制度作りは、戦後日本では専ら行政の責務とされてきた。各個人は自由に行動すれば良いとされ、行政から独立した草の根運動的なものが実ることはほとんどなかった。その結果、権限が政府に集中し、権益を巡って冒頭に記した政党間あるいは政党内の紛争が引き起こされた。しかも、この政府の役割の肥大が厖大な財政赤字をもたらした。

 こうなると、非政府組織(NGO)や非営利団体(NPO)主体の活動と組織作りに期待が募る。だがNGOやNPOは信頼できるのか問題が残る。企業特に大企業には多くの法的制約が課せられており、様々な情報を公開する義務がある。一方、NGOやNPOにはない。だから信頼が置ける団体かどうかの判断は難しい。信頼できない組織や団体相手には、利他精神が発揮されることはない。

 このように問題解決は容易ではない。しかし、これまでの議論から、二つのことが明らかになった。現代社会においては、世界的な規模で各個人が利他精神を発揮し協力しあう必要があるということ、そして、そのための制度設計を政府に任せているだけでは駄目だということだ。そうは言っても道は険しい。それでも、発想と行動の転換を図り、道を切り開いていくしかない。


(H24/1/7記)


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