☆ 誤謬 ☆


 つい最近まで「誤謬(ごびゅう)」は「ごびょう」と読むものだとすっかり信じ込んでいた。「ごびょう」を漢字変換しても「誤びょう」や「五秒」としか表示されない。日頃から漢字変換ソフトの学習能力の低さに呆れていたので、「五秒」と表示するディスプレイをみて何と役立たないソフトだと憤っていたのだが、何のことはない役に立たないのは私の頭の方だった。

 「誤謬」を「ごびょう」と繰り返し発言していたのだから、誰か耳元で「ごびょうではなく、ごびゅう」と教えてくれてもよさそうなものだが、人徳のなさか、教えても無駄だと思われているのか、誰も教えてくれない。偶然「ごびょう」を(主観的には)間違って「ごびゅう」と打ち込んで漢字変換したら「誤謬」が表示されて漸く気が付いた。この言葉を覚えたのはたぶん中学生の頃だったから、40年もの歳月誤った認識を持ち続けていたことになる。別に後悔するほどの話しではないが、何か私の人生を暗示しているようで妙に虚しくなる。

 それはそうと、これは表意文字である漢字ならでは誤謬で、アルファベットのような表音文字では生じない。ヘーゲルはアルファベット文字こそ正しい認識に相応しいと述べている。それは西洋中心主義のイデオロギーに過ぎないと思うが、表意文字の方が話し言葉と書き言葉に乖離が生じ間違いを起こしやすくなるのは事実だろう。だがその一方で、表意文字には表音文字を超える創造性が備わっているとみることができる。私が有名人だったら、人々が真似て「誤謬」を「ごびょう」と読むようになり、いつしか辞書に「誤謬」の読み方として「ごびゅう」の他に「ごびょう」も正しい読み方として掲載されるようになるかもしれない。

 日本語は表意文字である漢字だけではなく、表音文字である「ひらがな」や「カタカナ」が存在する。ローマ字という非常識な表記法まである。漢字をはじめほとんどの言葉が外国から習ったものだとは言え、言葉の本質がその差異的体系性にあることを鑑みると日本人の創造力は素晴らしいと誇ってよい。

 その割には日本人の発想は貧困だ。特に昨今の政争を眺めていると政治家の創造力の欠如には唖然とする。尤も幾度となく気が付く機会がありながら40年間も「誤謬」が「ごびゅう」であることに気が付かなかった私に言えた義理ではない。この私が世間一般からは平均的な知性の持ち主だと思われているのだから、現代の日本人に創造力と想像力が欠けていることは間違いない。英語教育を低学年から始めるのも悪くないが日本語をもっと良く勉強するべきではないだろうか。少なくとも「誤謬」を「ごびょう」と信じて人生を棒に振る者が出てこないように努める必要がある。


(H20/3/18記)


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