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井出 薫
自由意志の問題は古代から哲学者の主要な問題の一つだったし、本WEBで筆者も幾度となく議論した。現代では哲学者だけではなく数学者や物理学者など自然科学者、人文社会科学者も議論に参加している。AIとの関連でも議論されることが多い。AIが進歩普及し社会に巨大な影響を与えるようになり、それがさらに加速することがほぼ確実な現代、自由意志の問題は現代世界最大の問題と言えるかもしれない。しかし、膨大な議論がなされてきたにもかかわらず結論は出ていない。自由意志など存在しないと主張する者がいる。たとえばスピノザやニーチェを例に挙げることができる。また神が全知全能であることから自由意志など存在しえないという議論もある。なぜなら人間に自由意志があるならば、神は人間の行動を予測することができず全知全能ではなくなるからだ。マックス・ウェーバーが資本主義誕生に大きな役割を果たしたと論じるカルヴァンの予定説も自由意志を直接的には否定していないものの間接的に否定していると言えるし、それは神が全知全能であるという思想と合致している。一方で、自由意志があることは自明であり、それを物理法則の普遍性と必然性とどう折り合いをつけるかが問題なのだと主張する者もいる。現代においてはこちらの意見が優勢と言えよう。 (注)なお「自由意志」と「自由意思」という二つの表現があり、後者は感情や気分などを指し、前者は確固たる信念に基づく振る舞いを意味するとして分けて考えることがあるが、本稿では両者を区別することはしない。そのような区別は便宜的なものであり、大した意味はないと筆者は考えている。本稿では自由意志という言葉を一貫して使用する。なお別の論考では自由意思という表現を使っていることもあるが、ときたまその表現を用いただけであり本稿の自由意志と同じ意味だと考えてもらって構わない。 自由意志という概念もモデル・道具であることに変わりはない。それゆえ、そのモデル・道具とその対象との間には解消できない差異がある。ここで自由意志というモデル・道具の対象にはどのような性質があるかが問題となる。筆者は自由意志の問題が解決困難な問題として哲学者や科学者を悩ませ続けているのは、自由意志を存在論的な次元で議論しようとしているからだと考える。つまり、自由意志は存在するか否かという観点で彼と彼女たちは議論する。しかし、自由意志というモデル・道具の対象は存在、非存在という次元で議論できるものではない。それは自由意志というモデル・道具を特定の対象に帰属させることができるか否か、帰属させるべきか否かという観点から議論すべきものなのだ。それを存在するか否かという観点で議論するから解決ができない。ある意味、存在するか否かという問題は疑似問題だと言ってもよい。存在論的に議論することは無意味だと悟れば問題は解消する。 ほとんどの人は自由意志を持っている(つまり存在論的に存在する)と信じているが、自由意志は存在するか否かではなく、人間が自由意思という概念(モデル・道具)を帰属させる対象として相応しいか否かを議論する必要がある。そして人間の共同体の大多数が古代より自由意志を帰属させるに相応しい存在として人間を認識してきた。それが、人間には自由意志が存在するという存在論的な主張へと意図せず、ずらされてきたと言えよう。重度の知的障害を有している者などを除いて、私たちはおよそほとんどすべての人間に自由意志という概念(モデル・道具)が適用されるべきだと考えている。要は自由意志は在るか否かではなく帰属させることができるか否かが課題となる。そして、その決定は自然科学的な研究ではなく共同体における判断の問題となる。自由意志は人間だけではなく他の存在についてもその帰属が議論されることがある。他の動物に自由意志があるか否か、植物に自由意志があるか否か、(現在または未来の進化した)AIあるいはAGIに自由意志があるか否か、AI搭載のロボットやアンドロイドに自由意志があるか否か、などが議論される。しかし、これらの問いは、存在論的な次元で議論する限りは解決不可能な問題となってしまう。一方、帰属させるか否かという次元で議論を進めれば、存在するか否かという答えのない議論から自由になり問題は解消される。他の動物、植物、さらには微生物、AIまたはAGI、ロボットやアンドロイドは自由意志を持つか否かではなく、私たち人間が共同体における判断として、これらの存在者に自由意志というモデル・道具を帰属させるか否かが問題となっているのだ。さらには、この観点に立てば自然界に存在する無生物にも自由意志を帰属させることが論理的には可能となる。原始時代には人間は山や川、大気や海など無生物にも自由意志を帰属させていることがあった。科学的な実証や哲学的存在論的な議論で自由意志が議論されるのではなく共同体の判断で帰属の是非が決まるのだから、原始時代と言わず、古代、中世などでも無生物に自由意志を帰属させる共同体は存在した。近代に至っても、いや現代でも無生物に自由意志を帰属させる文化を持つ共同体は存在する。私たちも、無生物に何か自由意志のようなものを感じることがあるが、それは無意識のうちに自由意志をその存在に帰属させているからと言ってよい。だから、AIやロボットにも自由意志を帰属させることが可能となる。要はAIやロボットの機能や構造ではなく、共同体の判断が決定的な役割を果たす。そしてその決定は自然科学的な議論ではなく、むしろ政治的文化的な判断となる。自由意志は自然科学の対象ではない。 それでも「私には確実に自由意志がある」と主張する者はいる。いや、それが多数派だろう。筆者自身そういう感じを有する者の気持ちはよく理解できる。そういう感覚は筆者も共有するからだ。しかし考えてみよう。自分が自由意志を持っていることをどうやって他人あるいは自分自身に対して証明することができるだろうか。「私は就職活動をしてA社とB社から内定を得た。最初は迷い周囲の意見も聞いたが最終的には自分の意志でA社に就職することを決めた。それは自分の自由な意志による決断で、他の誰の決断でもない。A社に入社して後悔することになっても自分は誰にも責任転嫁することはしない。なぜなら自由意志で決めたからだ。私には間違いなく自由意志がある」このように論じる者がいる。しかし、彼又は彼女は決断に至る必然的なメカニズムを知らないがゆえに自由に決断した、そこに自由意志があったと錯覚しているに過ぎないという異論に対してどう反論することができるだろうか。人間の判断という行為は脳神経系を中心とする身体という物質により行われる。脳神経系は極めて複雑な構造と機能を持っているが、原子分子の集合体であり物理法則に規定される。古典物理学では未来は現在の状態により確定しており自由な意志による決断などという思想が入り込む余地はない。量子論により、決断する以前は、彼又は彼女はA社に就職する確率xx%、B社に就職する確率(100−xx)%という量子状態の重ね合わせにあったと考えることが可能となっている。そこに自由意志の可能性を見ようとする哲学者や物理学者も存在する。だが、量子論の教えるところによれば、重ね合わせの状態のいずれになるかは偶然で、彼又は彼女が自分の意志でどちらかを選択することはできない。そこには自由な選択の余地はなく、ただ確率論的に未来が決まる。量子論の多世界解釈では二つのパラレルワールドに世界は分裂しA社に就職している世界とB社に就職している世界があることになるが、彼と彼女にどちらの世界に進むかを決めることはできない。いずれにしろ、物理法則の普遍性・必然性を認めるのであれば、自由意志の存在は存在論的には幻想にすぎないと言わなくてはならない。人間と哲学的ゾンビ(人間と外観も内部構造も寸分たがわず振る舞いも全く同じだが意識をもたない存在)は区別できない。人間がすべて哲学的ゾンビである可能性も否定できない。哲学的ゾンビは意識がないから自由意志も存在しない。結局、人間に自由意志があるか否かという存在論的な議論は答えのない疑似問題であり、存在論的な次元で議論する限り自由意志の問題には答えは出ない。同じようにAIが自由意志を持つことがあるか否かという問いも存在論的に議論する限り答えはない。 自由とか自由意志とかいう概念(モデル・道具)は美という概念(モデル・道具)とよく似ている。「富士山は美しい」、「桜の花は美しい」、「Aさんは美しい」、「アインシュタインの重力方程式は美しい」など美という概念は、美しいという形容詞として様々な場面で使用される。ここで、富士山、桜の花、Aさん、アインシュタインの方程式に共通の美しさ(美)は存在するだろうか。富士山を特段美しいと思わない者は少なからず存在する。人間の美は個人差が大きく民族によっても異なる。たとえば女性の美人ランキングを作ると意見は大きく分かれる。日本人は顔が小さいことを美人の条件の一つとすることが多いが、外国では顔の小ささに拘る者は少ない。ロシア人ユーチューバによるとロシアでは美人の条件は、軽く日焼けし、高身長、スリムで顔は目が大きく鼻が高く口は餃子のような形の女性が美人とされるとのこと。日本人の基準とはかなり違う。アインシュタインの重力方程式を美しいと感じる者はおそらく物理学者や数学者、芸術家以外にはごく少ない。美しいどころか「訳が分からない記号の羅列」という感想を持つ者がほとんどだろう。また個人でも好みが変わり美しいと感じる対象が変わることも多い。美とはウィトゲンシュタインの言語ゲームを援用すれば、言語ゲームによりその意味が緩やかに決まるようなものであり、そこに見出されるのは共通の本質などではなく家族的類似性に過ぎないということになる。そして、自由とか自由意志というモデル・道具も同じことが当て嵌まる。自由があるか、自由意志があるか否かという問いには、共同体で遂行される言語ゲームにより都度便宜的に決まる答えしかなく、普遍的な答えなど存在しない。但し、裁判では人間に自由意志を帰属させないと、すべては神の意志によるとか、物理法則によるとか言って、被告に責任を負わせることができないという論法が成り立つことになるから、自由意志を帰属させない訳にはいかない。また日常生活、組織での活動でも同じことが当て嵌まり、心神喪失、心神耗弱状態にない限りは人間には自由意志があると判断するしかない。その前提なしには共同体の秩序は崩壊する。要はそこで問題になるのは、自由意志があるか否かではなく、帰属させるか否かなのだ。そして現代においては圧倒的多数の共同体が自由意志を人間に帰属させている。過去においても多くの共同体において同じことが行われていただろう。なお、人間つまり共同体の成員に自由意志を帰属させるという共同体全体の行為自体が共同体の自由意志によるものとして思念することができるか否か、言い換えると共同体の自由意志なるモデル・道具が意義を持つかという問題は別に議論が必要となる。筆者は意義があると考えているが、差し当たり、自由意志は個々の自然人に適用されるものとしておく。このあたりの論考は法人に関する法人実在説と法人擬制説、法人否定説の議論とも関連するが本稿では省略する。 これに対して、物理法則の普遍性・必然性にもかかわらず、自由意志を帰属させることができるのはなぜかという問いがあろう。それは物理法則がモデル・道具であることを思い出せば解決される。物理法則はモデル・道具であるから対象(本稿の議論では人間そのもの)とは解消できない差異がある。その差異の存在において、自由や自由意志というモデル・道具を帰属させることが可能となる。解消できない差異が存在するところには恣意性があり、様々なモデル・道具を考案し活用することができる。人間は自然科学の対象として見ることもできるし、社会的な存在として見ることもできる。芸術的な対象として見ることもできる。自然科学的なモデル・道具ではモデル・道具の構成要素が実際に存在するか否かという観点から議論されるのに対して、自由意志というモデル・道具は共同体的行為として帰属させるか否かという観点から議論される。つまりモデル・道具の性格において両者には決定的な違いがある。それゆえ、自由意志を存在するか否かという自然科学的な観点で論じることは的外れであり、その様な議論は無意味なものとなるしかない。また、自由意志というモデル・道具の性格から、人間以外の生物、AI、ロボット、自然界の無生物などに対して、どの範囲まで自由意志を帰属させるかという問いに対して確実で固定的な基準は存在しない。それは(自然科学的な議論や検証からは答えがでない)共同体の判断による。そして、それは時代と共に変わりうる。AIがAGIへと進化し、それがロボットに具備されたとき、私たち人間社会という共同体はそれに自由意志を帰属させ、その意志を尊重するようになる可能性がある。ただ、筆者はAIやロボットが如何に進歩しようが生命を持たない機械に過ぎない以上、それらの存在に自由意志を帰属させるべきではないと考える。なお、自由意志に関する議論は倫理的な課題や人文社会科学と哲学的な問題にも当て嵌まる。それは自然科学のように実際に存在するか否かという観点から議論すべきものではない。身体を幾ら分析しても自由意志は発見できない。それは100万円のダイヤモンドを幾ら分析しても100万円が出てこないのと同じなのだ。 了
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