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井出 薫
「心優しい人」、「心が痛む」、「他人の心は計り知れない」、「幸せは心が決める」など心という言葉は頻繁に使用される。そして、その意味は容易に理解される。ところが、「心とは何か」、「心はなぜ存在するのか」、「心は実在するのか、錯覚に過ぎないのではないか」などという問いには誰も答えられない。心理学は、このような根源的な問いに蓋をして、心的現象と呼ばれる事象を研究しているにすぎない。そこから、「心の哲学」や「心の科学」が必要だという主張が生まれてくる。しかし、心を哲学的つまり思弁的に解明することはできない。哲学しているのは私の心であり、心の哲学はどうしても独白に留まるか循環論法に陥る。また学として成立するには言葉が欠かせないが、哲学は言葉の存在を前提にして初めて成り立つために言葉の裏側に回ることはできない。そのため、心についても、心そのものではなく、心という言葉の分析以上のことはできない。それゆえ、心の科学が期待されるのであるが、様々な難題があり道を切り開くのは容易ではない。そこで本稿では心の科学が克服すべき難関を幾つか紹介する。 日頃の会話では、心、意識、精神の三つの言葉はニュアンスに違いがあるものの同じ意味で使われることが多い。デカルトは延長実体としての物質と思惟実体としての精神を世界の構成要素とするが、デカルトの精神は「我思う故に我在り」から推察されるとおり心や意識とほぼ同じことを意味している。だからデカルトは心身二元論を提唱したと言われる。一方、無意識や(無意識と意識の境界をなす)前意識を強調する精神分析などでは心という言葉は、しばしば意識と無意識、前意識を合わせたものとして使われる。心は主観的、私的な存在と暗黙裡に仮定されていることが多いが、ヘーゲル哲学では客観的精神、絶対的精神という言葉が示す通り、精神は個人を超えた世界の本質という性格を有する。それゆえ、通俗的な意味での心とヘーゲル哲学の精神は意味が大きく異なる。主観的精神は一見したところ心に近く見えるが、主観的精神は弁証法的に客観的精神を経て絶対的精神へと止揚されるから、通俗的な意味での心とはやはり意味が異なる。これらの例からも分かる通り、日常会話でも、学問分野でも心という言葉は曖昧で多様な使われ方をしている。ウィトゲンシュタインを援用すると、心という言葉を使う多様な言語ゲームが存在し、心には共通の本質などなく家族的類似性が見いだされるに過ぎないと言いたくなる。だが、それは正しいとしても、そこで終ったのでは心の科学は頓挫する。心は、哲学、精神医学、脳科学、AI研究、社会科学、心理学などで極めて重要な概念であり、言語ゲーム論で済ませる訳にはいかない。それぞれの学問領域で、探求の目的と方法を明確にし、それに適う心の概念を構成する必要がある。しかし、ここで論じたとおり、心という言葉は異なる学問領域、異なる論者により極めて多様な使われ方をしており、それが様々な領域を侵食している。そのため研究領域を限定しても、適切な概念を再構築することは容易ではない。しかし、適切な概念を構築することこそ、心の科学の第一歩であり、避けて通ることはできない。 心の科学を展開するうえで難敵となるのが心脳同一説や物理主義だ。人間は原子分子の集まりであるのになぜ痛みを感じるのかという問いがある。ここには人間もまた原子分子の集合体なのだから、原子分子を支配する物理学や化学の法則から心の存在や働きも導き出せるはずだという心脳同一説や物理主義の信念がある。しかし、これは正しくない。考える原子、痛がる原子など存在しない。膨大な数の原子分子の集まりが複雑な構造をとる精子や卵子、受精卵なども考えないし、痛みを感じることもない。細胞分裂が進み脳神経系が生成されてから漸く感覚や感情の源泉となる身体の体制が整う。しかし、この過程の中でなぜ意識あるいは心と呼ばれる者が生じるのか、これは現時点では全くの謎だと言わなくてはならない。物理学や化学を基礎とする自然科学は、痛みを感じているとき、嬉しいとき、考え事をしているときに、脳神経系や内分泌系など身体に何が起きているかを解明することができる。しかし、該当の身体の状態がなぜ痛み、嬉しさ、思考を生み出しているのかを知ることはできない。できることは物質である身体の状態と心の状態を対応させることだけであり、心などなかった受精卵からどのような過程を経て心が生まれたのかを物理や化学は決して解明できない。原子分子には感覚も感情も思考も存在しないがゆえに、物理学や化学には感覚や感情、思考を表現する用語又は概念を取り入れる余地がない。しかし、それなしには心の発生を解明することはできない。このことは、身体も振る舞いも完全に人間と同じだが心のない哲学的ゾンビの存在を論理学的にも物理学的にも否定できないことから明らかになる。哲学的ゾンビは歯が悪くなったとき人間と同じように顔をしかめ、尋ねられれば「歯が痛い」と返答する。しかし哲学的ゾンビは痛みを感じていない。痛みを感じているように振舞っているだけだ。誰もがそのような存在はあり得ないと考える。だが、物理学で哲学的ゾンビが存在しないことを証明することはできない。なぜなら物理学は感覚や感情を表現する言葉とその概念と関りを持つことができないからだ。関りを持たないものについては何も語れない。論理学的には哲学的ゾンビは存在しうると回答するしかない。なぜなら哲学的ゾンビの存在は他の命題と矛盾することがないからだ。それゆえ、物理主義=すべては物理学に還元されるという考え、並びにそれに基づく心脳同一説を放棄しない限り心の科学的解明は可能とはならない。しかし、私たちは余りにも長きに亘り森羅万象は究極の物理法則から導かれるという思想に支配されており、そこから逃れることは容易ではない。しかも、物理主義が間違いであるならば、心の諸問題を解く(物理学とは異質な)学的理論をどのように探究すればよいのか、宇宙進化の過程で、いつ、どこで、どのようにして、その理論が有効となるような状態が生じたのか、という難問が出てくる。そして、それについては現時点では謎を解く鍵を誰も手にしていない。しかし、物理主義に囚われていては心の諸問題は決して解けないことはしっかり認識しておく必要がある。 最後の難関は、心が持つと想定される主観性または属人性だ。そもそも、そのようなものが本当に実在するのかという疑問がある。ウィトゲンシュタインは脳という箱の中にいるカブトムシという比喩で、主観的・属人的な心の存在に疑念があることを示した。しかし、私には心があり、私の心を知ることができるのは私だけだという信念は人々の間で非常に根強い。確かに先にも述べた通り脳神経系など身体のあらゆる状態を具に調べても、その者の心を知ることはできない。なぜならその者は哲学的ゾンビであり心を持たない存在かもしれないからだ。また、哲学的ゾンビと普通の人間の中間的な存在も論理的には考えることができるから猶更、他人の心は分からないことになる。この主観性・属人性をどのように考えればよいのか筆者には見当が付かない。しかし、心の科学が空想に過ぎないものではなく現実的なものとなるにはこの問題は避けて通れない。ただ主観性・属人性は物理学や化学など自然科学には存在しない特性であり、心の科学は自然科学とは異質な学になることは明らかだと言ってよい。 筆者はこれまでしばしば心の科学は不可能だと考え、そう述べてきた。だが、それは科学をもっぱら物理学に基礎づけられる存在、あるいは物理学と同じような体系を持つものでなくてはならないという偏狭な科学観に基づくものであった。そのような観点に立つと、経済学、政治学、法学、社会学、歴史学など人文社会科学はすべて科学ではないということになる。科学は決して物理学だけではない。独断を避け論理学や数学に適う合理的な思考の下で、複数の者の手による現実との比較対照と絶え間ない妥当性の吟味を通じて進歩していく学はすべて科学という名で呼んでよい。その意味で、心についても、心の科学が存在しうる。但し繰り返しになるが、それは決して物理学のような科学ではない。 了
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