☆ コミュニケーションの土台 ☆

井出 薫

 ウィトゲンシュタインは「ライオンが言葉を話しても、私たちは理解できないだろう」と指摘している。人間とライオンでは生活形式が異なり相互理解はできないとウィトゲンシュタインは考えている。ウィトゲンシュタインは言葉の意味を知りたければ、言葉がどのように使われているか調べる必要があるという。言葉の使用を調べるには生活形式を共有する必要がある。ライオンと生活形式を共有することは難しい。

 コミュニケーションは共同体を作り生活し生産をする人間にとってなくてはならない行為であり、コミュニケーションを通じて人々は心を通わせ、共同体の共通ルールを学びそれに従って行動することができるようになる。コミュニケーションで最も重要な道具は言葉であり、人間の共同体は言葉を通じたコミュニケーションで維持されている。ハーバーマスはコミュニケーション行為を言語使用の場として分析し対話的理性(対話的合理性)を見出し、あるべき社会を描き出した。ハーバーマスもウィトゲンシュタインも、言葉を重視し、言葉の中に物事のありのままの姿が現れると考えている。また、『言語と行為』を著したオースティンとその後継者たちは言語を行為として捉え、言語の様々な機能をコミュニケーションの中で位置づけ分析している。

 しかし、コミュニケーションあるところ必ず言葉があるのだろうか。言葉を喋ることができない動物にはコミュニケーションは不可能なのだろうか。動物と人間はコミュニケーションすることは不可能なのだろうか。こういう疑念が湧いてくる。愛犬家や愛猫家はペットと心を通わせている。ペットも自分がしてほしいことや自分の気持ちを言葉を使うことなく飼い主に知らせるし、飼い主もそれを理解する。集団生活をする動物たちは様々な方法で意思を伝え協力行動を遂行し群れの秩序を維持する。ミツバチは蜂ダンスで情報を仲間に伝達し群れを維持する。高等動物は鳴き声など音声や匂いを利用して情報を伝達し群れの安全を維持する。交尾をするために雄と雌は様々な振る舞いで相手を惹きつけようと試みる。

 コミュニケーションの土台は、言葉ではなく、生命の場だと言ってよい。言葉がなくともコミュニケーションは成立する。言葉特に文字を使うと相互理解と合意内容の確認は容易になる。しかし、言葉にも不確実性が付き纏い、文字で記した契約書があっても双方がその解釈で対立することは珍しくない。また、コミュニケーションの場では明示された言葉だけではなく、その場の雰囲気、相手の表情や声の調子などが相互理解のために極めて重要な役割を果たす。コミュニケーションは言葉だけで完結するわけではない。

 私たちは生きていくために他者を必要とする。人間だけではなく群れをなして生きている動物たちすべてに同じことが言える。そして、生きるということに意義があり各個体が己のそれに執着するのは、生が有限で唯一無二性(交換不可能性)を持つからに他ならない。有限で唯一無二性を持つがゆえに人間は他者との関りにおいて自らの生を全うしようとする。そして、そのためには他者との適切な関わり合いを実現する必要がある。そのことはかかわる相手も同じことで、両者には対称性がある。それゆえこの関わり合いは全体的な性格を有し共同体を構成することになる。このような生物たちの関わり合いの中でコミュニケーションが遂行される。コミュニケーションには様々な振る舞いや道具が使われるが、人間にとって最も重要なのが高度に分節化され、無限とも言える状況を表現できる言葉だ。その結果、哲学者たちは言葉こそコミュニケーションの本質であり、また土台であると考えるようになった。また哲学自身が言葉で語られるから猶更言葉は私たちの思考の中で強大な力を持つことになる。だが、そのことはコミュニケーション=言葉(の使用)を意味しない。

 人間においてコミュニケーションの道具として最も重要で、信頼され、多用されるのは言葉(話し言葉と書き言葉=文字)であることは間違いない。数学など人工言語を含めた言葉なしには人間社会は成り立たない。しかし、人間においてもコミュニケーションがもっぱら言葉を背景にするものであると考えるのは間違っている。コミュニケーションの本質は人間と他の動物に共通する生命性、そこに示される有限性と唯一無二性の中にある。生命は他者との関係性において存在する。そして、それが必然的に人間を含めた動物がコミュニケーション行為に及ぶことを強いる。生命性の表現であるコミュニケーションは様々な形態があり、使用される道具も多様であり、言葉のみがその道具ではない。それは人間においてすら変わることはない。ウィトゲンシュタインはライオンが言葉を話しても理解できないと指摘する。これは人間とライオンのコミュニケーション不可能性を指摘しているように見える。だが、そうではなく、ウィトゲンシュタインはコミュニケーションは言葉のみで行われるものではなく、それゆえライオンが言葉を話しても、それだけでは私たちは理解できない、ライオンと生活形式を共有することを試みて初めてライオンとコミュニケーションできると指摘しているとも解釈できる。見方を変えれば、たとえ普通の言葉を話さないライオンでも、生活形式を共有化することでコミュニケーションが可能となることをウィトゲンシュタインは示唆していることになる。ペットや家畜と飼い主は間違いなく言葉を使うことなくコミュニケーションをしている。


(2025/12/23記)

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