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井出 薫
カール・ポランニーは労働力、土地、貨幣は商品ではなく、市場で自由に需給調整することはできないと論じた。マルクスも労働力と土地は資本が自由に生産することができず、その結果、好況期の賃金高騰が恐慌を引き起こし、土地の制約で大土地所有者は絶対地代を獲得することができると述べている。労働力と土地が市場経済の限界をなすことは容易に見て取れる。人口を需給に合わせて自由に増減させることはできない。また機械と違い人間を24時間休みなしで働かせることはできない。土地を代表とする自然もまた需給に合わせて調整することはできない。開墾や埋め立てで農地を広げることはできるが限界があり、また自然破壊の代償を避けることはできない。工業、情報業やサービス業などに欠かせない化石燃料や希少資源は増やすことはできずしかも偏在している。労働力(人間)と土地(自然)が市場の外部をなすことは明白だ。 貨幣はどうだろうか。貴金属が貨幣だった時代や金本位制の時代には、貨幣は人間と自然と同様に自然的な限界があり、市場で制御することはできないものだった。しかし、現代の管理通貨制度の下では貨幣(通貨)は(広義の)政府が経済状況に応じて自由に供給できるものであり、国債や金融政策で貨幣供給量を調整することができる。現代は家計、企業、政府の三つの経済主体が市場経済を形成する。それゆえ貨幣は市場で制御できるものとなったと考えることもできなくはない。財政論で厳しく対立する緊縮財政派とMMT論者、また両者の中間的な立場であるリフレ派など積極財政派も総じて貨幣が市場経済で制御可能な存在であると暗黙裡に想定している。 しかし、管理通貨制度下でも依然として貨幣は市場の外部にある。管理通貨制度により物理的な制約は解消されたが、貨幣の持つ根源的な記号性は残存しており市場で制御することはできない。ここで論じる「記号」とは記号表記と記号内容の関係が恣意的で、他の記号や物との関係もまた恣意的な存在で、かつ数学や論理学が使用する記号のような論理的整合性と体系性を持たないものを示す。自然言語もこの意味での記号性を有する。新語は次々生まれるし、言葉の使い方や意味が変わることは珍しくない。『源氏物語』は現代語訳してくれないと筆者を含め多くの者は読めない。そしてこの言葉の変化は予測が付かない。一方、自然言語は人類史的な歴史があり比較的恣意性は低い。「私」という言葉の意味と「貴方」のそれを取り換えることは形式的には可能だが、そのようなバカなことは誰も考えない。仮に国家がそれを推奨しても、人々は相変わらず今まで通りに「私」と「貴方」を使うだろうし、そうしないと至る所でコミュニケーションに支障が生じる。その意味で自然言語は恣意性が低いがそれでも記号であることに変わりはない。そして貨幣も言葉と同じように記号として存在する。しかも、その恣意性は根源的なものであり、数学の記号のような便宜的なものではない。 交易が一般的になって以来、貨幣は無くてはならない存在となった。しかし、その実体は共同体により様々で固定した形態はない。西洋では古くから金貨のような貴金属の貨幣が使用されていたが、東洋では多くの地域で政府が制定した名目貨幣が使われた。また貨幣を統制する機関や規則は時代とともに変化してきた。そして今でも地域により異なり、また日々変化している。貨幣はその重要性から自然言語と同じように恣意性は低いが、管理通貨制度が普及した現代においても、恣意性を有する記号であることに変わりはない。それゆえ、通貨管理制度が普及し、そのシステムがいかに合理的なものとなっても、常にシステムは根源的な避けがたい不安定性を持ち続け、定期的に、あるいは不定期に大きな混乱を引き起こす。それを回避することは資本主義体制が続く限りできない。また資本主義を解体し共産主義を実現しても、個人の自由を尊重する限り、文明が発達した現代、生産物の交換が不可欠で、そこに貨幣的な存在が介在せざるをえず不安定性を完全に解消することはできない。 これに対しては、「AIは現時点では自然言語理解で人間に劣る。しかし、それは技術が未熟であること、脳の言語処理の機序が解明されていないことによる。科学と技術の進歩で問題は解消されAIは人間と同等あるいはそれ以上に巧みに自然言語を理解し使うことができるようになる。貨幣も金融システムの合理化が進めば、根源的な恣意性などというものは解消される。自然言語も貨幣も恣意性はあるが、いずれ数学的な記号と同等なレベルの論理的整合性と体系性を持つ存在となる。そうなれば貨幣の恣意性は数学的に制御可能となり金融システムは恒常的に安定化する」という異論があろう。 本稿では分かりやすく議論を進めるために自然言語を引き合いに出した。だが、自然言語と貨幣は大きな違いがある。自然言語は、生物進化の過程で生まれたものであり、自然史にその起源をもつ。それゆえ、科学と技術の進歩でそれが持つ根源的な恣意性と思しきものを悉く解明し、それを制御可能な恣意性つまり数学的に処理可能(AIで処理可能)なものとすることができる可能性がある。しかし、貨幣は自然史にその起源を持つ者ではない。それは人間の共同体の歴史、社会史に起源を持つ者であり、その点で自然言語とは性格が異なる。社会史に起源を持つ者の根源的な恣意性は数学的な便宜性に還元することはできない。 その根拠をマルクス『資本論』の価値形態論に見ることができる。マルクス自身は、貨幣を自然科学と同等な科学的な手法で完全に解明することができると考え、それを実現したと自負していた。だが、実際はそれに成功したとは言えない。むしろ、価値形態論は貨幣が孕む根源的な恣意性が解消不可能であることを示している。 価値形態論は単純な価値形態から始まる。20エレのリンネルの所有者が1着の上着と交換することを望んでいる。これは「20エレのリンネル=1着の上着」と定式化される。20エレのリンネルは相対的価値形態、1着の上着は等価形態と称される。マルクスは商品には、社会的平均労働時間で規定される価値と、具体的な有用性を示す使用価値の二重の価値があるという。上の定式では相対的価値形態は価値を表現し、等価形態は使用価値を表現する。20エレのリンネルは所有者にとっては使用価値ではなく、1着の上着を得るための手段としての(交換)価値でしかない。1着の上着こそが使用価値となる。しかし、1着の上着の所有者が20エレのリンネルと交換することを望んでいる保証はない。つまり、単純な価値形態「A=B」は価値を使用価値と等置する、つまり価値を使用価値で表現するという矛盾を孕む。それゆえ「A=B」は「B=A」を保証しない。つまり単純な価値形態は根源的な恣意性を有する。そこでマルクスは矛盾を孕む単純な価値形態は展開された価値形態「A=B」、「A=C」、・・「A=Z」・・へと必然的に移行するという。この移行を正当化するのが労働価値説とそれに基づく等価交換なのだが、労働価値説と等価交換は一般的に成立する訳ではない。値札がない限り当事者は等価交換かどうか知る由はない。値札が信頼できるかどうかも分からない。それゆえ、この移行は必然ではなく恣意的でしかない。さらに、この形態でも価値が使用価値で表現されるという矛盾は解消されていない。つまり、ここでも根源的な恣意性は解消されていない。そこで、さらにマルクスは展開された価値形態は一般的等価形態へと必然的に移行するという。「A=G」、「B=G」、・・「Z=G」・・が一般的等価形態で、Gは一般的等価物と呼ばれ、Gが金に定着したときに貨幣形態になる。マルクスはこの形態に到達したときにすべての矛盾は解決されると考える。一般的等価物Gは他の商品から排除され、他の商品の価値を評価する基準として使用されるという特異な使用価値を持つ。これによりAなど一般商品の価値はGの使用価値=価値評価機能により矛盾なく価値として定量的に確定される。これが価値形態論の核心で、マルクスはアリストテレス以来の貨幣の謎が遂に解明されたと宣言する。だが、この議論にはいささか無理がある。展開された価値形態の集合体に属する商品群の中から一般的等価物が得られると想定されているが、それが一つに収斂するか複数になるかは予想が付かない。安定的に一般的等価物として機能し続けるかどうかも分からない。それゆえ一般的等価形態(と一般的等価物が金に固定した貨幣形態)もまた根源的な恣意性を克服できたわけではない。一定期間、特定の貨幣が国家の法的強制力などで有効な貨幣として偶然的に機能しているに過ぎない。しかも展開された価値形態を導入する際に労働価値説と等価交換を援用したために、マルクスの価値形態論では一般的等価物はそれ自身で価値と使用価値を有するものとならざるを得ない。現代の管理通貨制度の下では、貨幣(通貨)は口座の数字に過ぎずモノ的実体を失っている。しかし、このような純粋な記号としての貨幣は価値形態論からは説明が付かない。このことは価値形態論そのものが根源的な恣意性を有することを示しているとも言える。しかし、価値形態論が意味がない訳ではない。むしろ、価値形態論そのものが孕む根源的恣意性が、マルクスの意図とは異なるが、貨幣が、数学で用いられる便宜的な記号のような論理的整合性と体系性を持ち得ない根源的な恣意性を孕む記号であることを証ししている。そもそも最初に登場した単純な価値形態が商品交換が孕む根源的な恣意性を明らかにしている。単純な価値形態は実際のところは貨幣を前提とすることで初めて構成することが可能となる。貨幣があるからこそマルクスは単純な価値形態を構想することができた。単純な価値形態「A=B」の「=」は貨幣を前提としている。それゆえ単純な価値形態から貨幣形態へと至る道筋は循環論法となっている。つまり、マルクスの価値形態論は、貨幣がその根底において記号、それも数学的な処理ができない根源的な恣意性をもつ記号として存在することを明らかにしている。もちろんマルクスの価値形態論だけが貨幣の本質を論じる貨幣論ではなく多数の貨幣論が存在する。しかし、市場経済は貨幣と交換をその本質的契機としており、如何なる貨幣論も貨幣と単純な価値形態の持つ循環論法的な性格から逃れられない。それゆえ、ここでの議論はあらゆる貨幣論に当て嵌まる。 しかし、現代の貨幣は口座の数字であり、数学的に処理可能な存在になっている。だから、あとは金融システムを安定させればよいだけで、過去の貨幣が有していた根源的な恣意性を有する記号という性格はすでに解消されたのではないか、数学と同等の論理的整合性と体系性を持つに至ったのではないかという異論があるかもしれない。だが、それは皮相的な見方でしかない。確かに、口座の数字は数学的に処理される。だが、貨幣を介する市場経済において人々は決して数学的に処理できるような行動をとってはいない。貨幣には、計算合理性と黄金への欲望という二つの顔がある。貨幣が実質を失い徹底的に記号化することで、皮相的には貨幣は数学的対象になった。しかし、その背後には時として狂気にも繋がる黄金への欲望(それは文明の発展にも巨大な貢献をするのだが)がある。それは口座の数字そのものには見ることはできない。だが人々の貨幣を巡る言説や行為の中にそれは確実に存在している。そして、それが口座の数字を動かす(=市場経済を動かす)原動力になっている。人間の生そのものに起源をもつとも言える富、権力、名誉を希求する狂おしいばかりの欲望(それは市場経済では黄金への欲望を介して現れる)が経済を動かし口座の数字を変化させている。計算合理性の背景には非合理な社会的人間存在と黄金への欲望に動かされる根源的な諸活動がある。それは数学的な論理的整合性と体系性を持たない。ただそれは自らの欲望を満たすために、その露な姿を隠蔽し皮相的な論理的整合性と体系性を求める。それが数学的に処理できる口座の数字=現代の貨幣として現れている。つまり、数学的な存在としての貨幣からは排除された黄金への欲望こそが、貨幣の計算合理性を支え、市場経済の円滑な運営を可能とする。その一方で、非合理的で根源的恣意性を有する黄金への欲望が、貨幣とそれを支える金融システムを絶え間なく動揺させている。 このように貨幣には非合理で根源的な恣意性が付き纏う。しかし、この性格を持つがゆえに貨幣は貨幣であり、市場経済を駆動する原動力となる。そのことは、実物貨幣、紙幣、純粋な数学的存在となった貨幣、いずれの形態でも、変わることはない。そして市場経済の下ではそのような性格が解消されることはない。解消される日は市場経済も解消される。そのことは、市場経済を絶対的な土台とする資本主義が脆弱性と非合理性を孕んでいることを示している。しかし、現代の資本主義に代わる現実的な経済的なシステムを構想し実現することは容易ではない。倫理的資本主義とか脱成長コミュニズムなどが話題に上ることがあるが、現実的な提言とはなりえていない。これらの提言は、根源的な恣意性を持つ記号としての貨幣が人間の経済を動かすうえで決定的な重要性を持ってきたこと、そして今もまたそうであることを認識していない。だが、それを認識することから始めないと根本的な解決策は生まれない。 (補足) なお、根源的な恣意性とはモデル・道具論の次元における話しであり、現実の貨幣には当て嵌まらないのではないか、というモデル・道具論に基づく異論を提起することができる。しかし、モデル・道具論での貨幣は、それ自身が社会的な対象そのものであり、モデル・道具論で表現される貨幣が孕む根源的な恣意性は社会的事実として現れていると考えてよい。そこに自然と(自己言及的な性格を有する)社会との違いがある。 了
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