☆ 人とモノ、理由と原因 ☆

井出 薫

 理由を問う時と原因を問う時がある。日が暮れて暗くなったので電灯を点けるとき、人は点けた理由を問う。視覚に入射する光量が減ったので、その物理的な変化に伴い脳内で一連の信号処理が発生し筋肉に信号が伝達され電灯のスイッチを押した、などという説明を求めることはない。暗くなったから電灯を点けて明るくした。これがこの行為の説明で、原因ではなく行為の理由が説明されている。

 惑星の運動が問題となっているとき、現代人は力学の方程式を解き軌道や速度を説明する。惑星は円軌道または楕円軌道を描くことを望んでいる、などという説明は説明になっていない。ここでは惑星の運動の原因が問題で、惑星の行為の理由などは問題にはならない。そもそも惑星に「行為」という概念を適用することはできない。「行為」とは人に対して適用されるものであり、モノには適用されない。行為という概念が適用されるのが人であり、適用されないのがモノであると論じることもできる。そして、行為とは常に意図や意思と関連している。モノに行為という概念が適用されないのは、モノは意図や意思を持たない、心や意識はないと信じられているからだ。誰かが石を家に投げ込み窓ガラスが割れたとする。人は、投げ入れた者の意図、理由を問うだろう。投げた者の身体の物理的生理的現象やボールや窓ガラスの物理的特性などを問うことはない。一方、台風で石が飛んできて窓ガラスを割ったとき、台風の意図や理由を問うだろうか、問わない。人は自然科学的な観点で台風の規模や経路や被害を調査、予測する。台風には心も意識も精神もない。だから意図も意思もない。
(注)ただし、原始時代や古代においては、しばしばモノも擬人的に意思を持つと考えられていたことがある。それゆえ、本論は近代において成り立つ議論だと考える必要がある。

 しかし、二つの疑問がある。まず、人もモノの一つではないのだろうか。強風で意図せず転倒したときには、人はモノと同じように扱われる。だから転倒したときに何かを壊しても責任は問われない。意図的ではない受動的な行動は行為として捉えられることはない。つまり、人は理由が問われるときと原因が問われるときがある。なぜ、人には異質な二つの問いとそれに適当な答えがあるのだろうか。物理主義や科学的実在論などではこの問題に答えることはできない。だからと言って、人間はモノと精神の統一体、モノが従う自然法則と精神が従う法則は異質だという考えに同意する者は現代では多くない。しかし、それではこの二面性をどう説明すればよいのだろうか。人間は自然的存在であると同時に社会的存在だからだと答えることはできる。しかし、それは問題を言い換えたに過ぎない。つまり、理由と原因の問題を社会と自然に置き換えたに過ぎない。既存の哲学思想でこの問題に明確な答えを与えたものはない。

 今一つの問題は人間以外の生物の振る舞いをどう説明するかだ。猫が盆栽を壊した時、どう説明するか。猫の意図を問うだろうか。猫に特段意図はない。ただ盆栽に飛び移っただけだ。それは窓ガラスを割ったボールと大差ない。だが、猫が食事欲しさに甘え声で纏わり付いてくるとき、あるいはこちらの意図を探ろうとするかのように微妙な眼差しを投げ掛けてくるとき、人は猫の意図を考えるだろう。猫や犬、猿などの高等動物と呼ばれる動物たちは、人と同じように理由が問われることがある。一方で原因が問われることもある。だが、それでは、人と高等動物は同じ範疇に属する存在者なのだろうか。高等動物という言葉は曖昧で、比較的知能が高いと人に思われている動物に便宜的に付けているに過ぎない。だから、高等動物は人と同じに理由と原因が問われることがあると論じるのであれば、高等動物の範囲はどこまでかという疑問が生じる。魚は入るのか入らないのか。魚にも意図的と解釈できる行動がある。比喩的ではあるが昆虫や植物でも意図的と解釈できる行動がある。人と他の生物とを分けて考えることは存外難しい。意図や意思という観点から生物を分類することは容易ではない。

 理由あるいは意図が問われる場合と、運動を記述する自然法則や原因が問われる場合があるのはなぜか、結局のところ、現時点では、それが事実であると言うしかない。私たちの認識や行為を、対象とは解消されない差異を持つモデル・道具の生成や活用という観点から捉えるモデル・道具論はこの問題に光を当てる。だが、どうして、このような二つの類型のモデル・道具があるのかという問いが残る。それが事実なのだ、それ以上を問うことはできないと答えることはできる。だが、それでは満足できない者が多いだろう。筆者もその一人だ。


(2024/3/26記)

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