☆ 記憶はどこにある ☆

井出 薫

 記憶はどこにある。脳にある。当たり前に思えるが本当にそうだろうか。

 親戚、友人や同僚の電話番号を悉く頭に記憶している者はほとんどいない。たいていの者はメモ帳やスマホの電話帳を利用している。電話番号は脳に記憶されているのではなく電話帳に記録されている。記憶はもっぱら脳にあるのではなく、広く周囲の物、あるいは周囲の物との関連の中にある。

 こういうことを言うと哲学オタクの屁理屈だと冷笑されるかもしれない。確かに、電話帳に記憶があるのではなく、電話帳に電話番号を記録した記憶が脳にあると言う方が適切であることは認める。だが、こういう場合はどうだろう。久しぶりに友人の家を訪問する。過去3度ほど訪問したことがあり地図は必要ない。ところが案に相違して道に迷う。「あれ?この辺りにイタリア料理店があって、そこを左に曲がってすぐが彼の家だった。なのにイタリア料理店が見当たらない」。友人に後から聞くとイタリア料理店は引っ越しており、今はコインランドリーになっていることが分かる。それでも、あちこち回り何とか友人の家にたどり着く。この場合、私の脳にはイタリア料理店を含む地図や街角の風景が記憶されていたのだろうか。

 最寄駅から自宅までの道筋を頭に思い浮かべることはできる。だが、たまにしか訪れない場所だと道筋を頭に思い浮かべることは難しい。それでも人に尋ねなくても目的地に到達する。では脳にはどのような記憶があるのだろう。なぜ不十分な記憶でも目的地に到達できるのだろうか。毎日通る最寄駅から自宅までの道でも、道の両側のすべての店や家を覚えているわけではない。友人に「君の家へ行く途中にお菓子屋さんがあったよね」と言われて返答できないことがある。気になって翌日通ったら確かにお菓子屋さんがある。こういうことは珍しくない。

 脳には手掛かりとなる事物だけが記憶されており、それを手掛かりに私たちは現場で目的の行動を実行する。それゆえ、記憶はもっぱら脳にあると考えるよりも、脳と環境、あるいは両者の相互関係の中にあると考える方が適切と言える。さらに、「手が覚えている」、「足が覚えている」、「絵に描くことはできないが見れば分かる」などという表現がある。これは、脳の役割は重要であるが、記憶は身体のなかでもっぱら脳が担うものではなく身体全体で担うものだと考えた方が適切であることを教える。

 人間は環境から情報を引き出す。いや、むしろ環境が情報を提供すると言った方が相応しいことが多い。久しぶりに友人の家を訪ねる時がそれに該当する。目印になるような建物や風景が当人を家へと誘導する。環境は受動的な存在ではなく能動的な存在として現れることがある。人間は地球環境の中で進化し、共同体を作り環境に適応してきた。それゆえ、脳が主体で環境は客体という見方は適切ではない。むしろ環境が(意図したわけではないが)脳を作り出してきたという面もある。現代においても、子どもは自然環境・社会環境から情報を与えられ、それに基づき活動して成長する。大人になると子どもの時よりも自律的に行動できるようになるが、それでもやはり環境から得られる・与えられる情報に依存して活動している。記憶だけではなく知覚、思考などを含む認識能力は個人の脳に局在している訳ではなく、身体とそれを取り巻く社会環境・自然環境との全体の中に存在する。だからこそ、たいていは、たまに行く友人の家でもすんなり到達できる。ギブソンのアフォーダンス理論、ユクスキュルの環世界、メルロー・ポンティの身体を重視する現象学はそのことを心理学、生物学、哲学において示したと言える。

(補足)
 「本稿が示す論理は一つの見方に過ぎない。脳が全ての情報処理を行い、環境や身体器官は物理信号を送信・受信するだけだという見方もできる」という反論があるかもしれない。しかし、そのような物理主義的・還元論的な観点では人間と社会の諸活動を適切に説明することはできない。物理主義的な観点では、夕暮れて電灯を点けることを説明することすらできない。暗くなったから電灯を点けた。これが常識的な解釈で正しい。光という物理信号が減少し脳内でその状況を情報処理して、手を動かしスイッチをオンにしたという物理主義的な解釈もできる。しかし物理法則をいくら精緻に分析しても、この一連の物理過程を正確に記述することはできないし、そのような試みには意味がない。それは改憲の是非を場の量子論で解決しようとするような馬鹿げた試みでしかない。


(2024/2/22記)

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