☆ 無限とは ☆

井出 薫

 18世紀までは、無限とは限りなく大きな数や量が存在することを意味していた。もし最大数Mが存在するとしたら、M+1はMと等しいか小さいということになり矛盾する。それゆえ最大数は存在せず、正の数を加算することで幾らでも大きな数を作ることができる。このような操作的な無限が無限であると考えられていた。

 それが19世紀に入り、カントールなどにより無限が実無限として認識されるようになる。自然数全体、実数全体、直線上の点の全体、平面上の点の全体などが実無限の初歩的な例として挙げられる。いずれも操作的に定義される無限ではなく、無限そのものとして存在する無限、言い換えると実体として存在する無限と考えられる。そして、自然数全体も実数全体も無限集合だが、両者の大きさ(濃度と呼ばれる)には差があることをカントールは証明した。実数全体の方が自然数全体よりも濃度は大きい。さらにどの濃度よりも大きな濃度があることも証明されている。ある無限集合Xの部分集合の集合は冪集合と呼ばれXよりも大きな濃度を持つ。それゆえ、濃度の集合もまた無限集合になる。

 コンピュータがいくら進歩しても、メモリ量も処理速度も有限に留まる。だからAIの支援を受けても人間の認識は有限の範囲を超えることはない。有限な認識しか持ちえない人間が、実無限を思考し理解することが出来ることは矛盾のように思えるかもしれない。

 実際は、数学における無限は操作的な無限を超えた実無限であるとはいえ、有限な手続きで計算や証明ができる=アルゴリズム化できる無限に留まっている。それゆえ、その意味では真の実無限ではないとも言える。アルゴリズム化できるということは、原理的にはコンピュータで計算できるということで、AIがさらに進化すれば、無限と関わる数学の未解決問題が人間ではなくAIで解決される可能性がある。数学はアルゴリズムが原理的に存在する問題を対象とする。これに対して、数学には計算不可能な問題=(コンピュータの理論的基盤である)チューリングマシンで決定不可能な問題が存在する。たとえばチューリングマシンの停止問題がその一例として挙げられる。それゆえアルゴリズムが存在しない問題も数学は扱っていると反論したくなるかもしれない。だが、それが計算不可能=決定不可能であることは有限の手続きで証明できる、つまり証明のアルゴリズムが存在する。それゆえ、そういう問題も数学的実無限を超える無限を導入するものではない。数学の内部で数学的実無限を超える無限を見出すことはできない。それゆえ、有限な認識しか持ちえない人間も数学の範疇では実無限を理解し活用することができる。

 それでは、数学的実無限を超える無限は存在しないのだろうか。パスカルがいう幾何学的精神と対立する繊細の精神で捉えられる存在、数学や物理学など自然科学では解明し尽くせない存在、まさにそれらは数学的実無限を超える無限に属するように思える。しかし、そのような無限は本当に存在するのだろうか。スピノザの「神=自然=実体」は無限の属性を有し、デカルトが提唱する思惟実体としての精神と延長実体としての物質を無限の属性のうちの二つとして含む。それゆえスピノザの「神=自然=実体」は真の意味で実無限だと考えることができる。もちろんスピノザの思想が正しいかどうかは分からない。また、もしスピノザが論じるような実無限が存在するとして、人間の認識がそれに到達しうるかどうかも分からない。無限は今でも謎に包まれている。


(2024/2/6記)

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