☆ 可能世界 ☆

井出 薫

 哲学や論理学では、現実世界とは異なる可能世界を想定して議論をすることがある。たとえば「2024年1月現在の日本の首相は河野太郎である」は偽だが、可能世界では真であり得る。

 可能世界を考えることの意義は何だろう。通常の論理学では命題の真理値は「真」と「偽」だけだが、様相論理では「必然的に真」、「現実的に真」、「現実的に偽=可能的に真」、「必然的に偽」という4つの真理値を考える。ここで「必然的に真」はあらゆる可能世界で真の命題を意味し、「現実的に真」は可能世界では偽でありえる命題を意味する。「2024年1月現在の日本の首相は岸田文雄である」は現実的な真であるが、必然的な真ではない。先に述べたように、可能世界においては河野太郎が首相であることがありえるからだ。一方、「日本の首相は人間である」は必然的な真となる。このように可能世界を想定することで、必然性と現実性(あるいは偶然性)を区別することができる。

 しかし、可能世界とはどんな世界なのか。可能世界だからと言って、何でもありでは、どんなことも可能となり、議論の土台にならない。なぜなら、何でもありならば、必然的な真は存在しなくなるからだ。それゆえ、論理学や数学の真理が成り立たない世界、ゴジラやモスラなど空想上の産物が実在する世界などは、一般的に可能世界から排除する必要がある。

 それゆえ可能世界の設定には制約条件が必要となる。通常、論理学や数学的な真理はどの可能世界でも成り立つものとする。つまり論理学と数学の真理は必然的な真となる。また、自然法則も同じだとすることが多い。論理学と数学だけを制約条件とすると、ゴジラとモスラが現実に日本で戦うことがありえることになる。ゴジラもモスラもそのスペックは自然法則に反するものであり、自然法則を制約条件とすることで、これらの存在を可能世界から排除することができる。

 だが、この条件を緩和したいこともある。ゴジラやモスラは過去現在未来、そして地球外でも実在しない。しかし、空想の世界では確かに存在する。架空の存在を自然法則により排除すると芸術や美を論じることはできなくなる。SFや怪奇小説は無意味だということになりかねない。自然法則を絶対視すると宗教家からも異論が出るだろう。

 自然科学でも、自然法則が異なる世界を想定することに意義がある場合がある。重力や電磁力は距離の逆二乗則に従う。物理現象を表現する方程式は一般に時間の2階微分までしか含まず3階微分が現れることはない。重力が距離の逆二乗則に従わなければ、あるいは時間の3階微分が方程式に含まれていたら、宇宙は現実のそれと大きく異なり人間は存在しえなかっただろう。それゆえ、物理法則を探求するとき、宇宙に人間が実在するという事実を基に、物理法則は人間の実在を可能とするものに限るという人間原理を使うことができる。その場合、複数の異なる物理法則が成り立つ可能世界を用意し、その中で人間が実在しうる可能世界はどれかを検討することで、正しい物理法則の候補を絞り込むことができる。

 人間には想像力と創造力があり、意図することなく可能世界を構成し、そこで様々な実験的な試みをしている。「もし別の職業を選択していたら」、「別の人と結婚していたら」などと考えることは誰にでもある。そして、そこから教訓を引き出すことができる場合もある。可能世界は決して哲学と論理学の専売特許ではない。芸術、自然科学、社会科学、人文学、経営・経済、政治、倫理など様々な分野で、必要に応じて可能世界を構成することができ、そこから有意義な結論を見出すことができる。多様な可能世界を構成することができるところに人間の自由があるとも言える。ただし、忘れてはならないことは、どのような可能世界を構成する場合でも、無制約では駄目で、何らかの制約条件が必要となることだ。それぞれ探求の対象に相応しい制約を課したうえで可能世界を構成する必要がある。さもないと無意味な議論に陥る。


(2024/1/7記)

[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.