☆ 心はどこまで分かるか ☆

井出 薫

 「心とは何か」この問いに答えるのは難しい。感情、感覚、記憶、信念、知識、思考など他人には容易にうかがい知ることができない、その代わりに私自身は直接的に分かっている様々な印象の集まり、とでも言おうか。そして、多くの者は、他人の心は分からず、自分の心は他人には分からない。ただ自分の心は自分では分かっていると信じている。だが、フロイトが指摘した通り、私の心を私は分かっているとは必ずしも言えない。フロイトの理論そのものは批判が多く筆者もその正しさを疑っている。しかし、人間の心で無意識的な働きが重要な役割を果たしていることは間違いない。作家が散歩しながら周囲の樹々や家屋、道路を行きかう自動車をのんびりと眺めている。突然、アイデアが閃き、急いで家に帰りあらすじ、登場人物をノートに書き記す。この突然の閃きの背景には本人が気づかない何らかの無意識的な思考があったと考えることができる。人の名前が思い出せず、あれこれと頭の中で名前を列挙し懸命に思い出そうとするが思い出せない。諦めて洗濯を始めてしばらくすると、突然、思い出す。この場合も、無意識的な思考が存在していると考えることができる。それゆえ、私の心は私がすべて確実に分かっているとは言えない。つまり心=意識ではない。ただ、多くのことを分かっていることは言うまでもない。そして、その中には、ほかの者には容易に知りえないことがあると考えることも正しい。

 しかし、他人の心は知りえないのだろうか。他人の表情、しぐさ、話し方、見ているテレビやスマホ、読んでいる本、などからある程度他人の心を推察することができる。友人と歩いているとき、向こうから見ず知らずの綺麗な女性がこちらに歩いてくる。思わず顔が綻ぶ、横の友人の顔を見ると同じように綻び、顔が会って「今日は縁起が良い」などと言えば、友人の気持ちは私と同じだと察することができる。とは言え、それには限界がある。難解な哲学書たとえばヘーゲルの『精神現象学』を読みながら難しい顔をしている人物の心を見透かすことは難しい。「どんな気分ですか」と尋ねても相手もうまく答えられないだろう。「ヘーゲルは難解だ」というくらいが関の山だが、それではその人物の心は分からない。尋ねられたから難解だと言っただけで、読んでいるときに難解だと感じていたとは限らない。また、いかにも歯が痛そうにしていたが、演技に過ぎなかったということもある。その意味で、他人の心を知ること、逆に他人が私の心を知ることには限界がある。刑事裁判では、精神鑑定が行われることがある。精神鑑定は専門家が行うが、しばしば意見が分かれる。また最終的に心神喪失と判断して無罪の判決を下すのは裁判官であり、ときには精神鑑定の結果を否認することもある。つまり、他人の心を知ることには限界があり、ある程度推測することができるに過ぎない。

 だが、脳など身体を検査することで心を知ることはできないだろうか。唯物論的な立場をとると、心も身体という物質の活動の所産となる。実際、脳の障害などで心は確実に影響を受ける。それゆえ、脳やそれに影響を与える身体諸組織の状態や周囲環境を緻密に検査分析すれば、心の状態を知ること・再現することができるのではないか、こういう考えが出てくる。物理主義(すべては原理的に物理学で説明できるとする考え)−筆者がこれまでもしばしば批判してきた哲学的立場−に立てば、そのようなことも原理的には可能となる。たとえば、すべての神経細胞の電位や出力する電気信号、細胞内あるいは細胞間の化学物質の濃度、細胞の構造など心の状態を決める物質的状態をすべてモニターすれば、本人がその都度持っている感情、感覚、記憶、信念、知識、思考などがすべて外部から観察できる。もちろん、現実的には心を知るだけの情報を得るには膨大な数のセンサーを脳に取り付け、常時モニターすることが必要になる。だが、そのようなことは倫理的に許容できない。倫理的な問題を別にしても、センサーを取り付けること自体が心の状態に影響する。また、心の状態には神経細胞の状態だけではなく、神経伝達物質やホルモンの濃度や分布、脳神経系以外の臓器の状態なども影響すると考えられるからモニターすべき箇所は無数に増えていく。そもそも神経細胞だけでも、その数は大脳と小脳を合わせて800億個以上あると言われ、それらすべてを完全にモニターすることなど不可能だ。つまり現実的には科学的な検査分析で他人の心を正確に知ること・再現することはできない。しかしながら、徹底的な物理主義者ならば、現実的には不可能でも、原理的には神経細胞など身体の物理的・化学的な状態で心の状態は決まっていると主張する。果たして、このような考えは正しいだろうか。

 もし、この考えが正しいとすると、心の状態と脳の状態との関係、特に因果関係はどうなるのかという問題が生まれる。これに対して二つの考え方が想定できる。まず両者には因果関係はないとする考えがある。そうなると心は脳という物質の活動に並行して自律的に存在することになる。だが、これは二元論であり、唯物論の一変種である物理主義とは整合しない。また、このような立場をとると、哲学者のチャーマーズが提唱した哲学的ゾンビ(身体の形状、身体内部の組成、振る舞い、つまり科学的に観察可能なすべてにおいて人間と全く同じであるにもかかわらず、心がない存在者)の存在を許容することになる。だが、哲学的ゾンビは物理主義の批判のための思考実験であり、おそらく現実には存在しえない。もう一つの考えは、神経細胞の活動などの物理的現象と心的現象は因果的に相互作用するという考えだ。しかし、そうなると心的現象なるものは物理法則に従うことになる。そうでないと考えると心は物理的存在と異なる存在ということになり唯物論は否定される。しかし、既存の物理法則に心的現象を取り入れる余地はない。物理現象は心的現象とは無関係に閉じた体系として物理法則に従う現象として存在する。脳など物質とその運動は電子顕微鏡や今年ノーベル物理学賞を受賞したアト秒技術などで観測が可能だが、どのような方法を用いても心的現象を物理学的に観測することはできない。つまり心的現象が物理現象と因果的に連関するという思想は物理学の原則を破ることになる。

 このように、脳など身体の物理的な状態で、心の状態が決まるという考えには無理がある。しかし、それではどうなっているのか、心身二元論、つまり人間とは身体という物質と霊魂あるいは精神などと呼ばれる心的存在者の複合体だというのか、という反論があろう。だが、そのような考えは、物理法則を世界に内在する原理あるいは設計図と運転指示書と考えるところから生まれている。物理法則が世界に内在する設計図・運転指示書であるならば、心的現象は幻想であるか、物理現象に包含されるものとして捉えるしかない。さもないと、二元論を支持することになる。だが、物理学の原理とか法則とか呼ばれるものは、内在する原理や設計図ではなく、世界のある領域を認識し、その認識と認識した対象を目的に応じて活用するためのモデル・道具でしかない。つまり、物理学は世界の中で物理現象と呼ばれる対象領域を説明し、予測し、制御するためのモデル・道具なのであり、森羅万象を生み出す源泉などではない。そのような考えは、唯物論を装った観念論的なヘーゲル主義でしかない。それゆえ、心的現象については、心的現象を説明し、予測し、制御するための適切な(物理学とは違う)モデル・道具が必要となる。両者ともにモデル・道具であり対象が異なるがゆえに、矛盾することはなく両立する。モデル・道具は対象を認識し、利用するための存在であり、その対象そのものとの間には解消できない差異がある。太陽そのものと太陽の認識はどこまで行っても異なる。物質と物質の認識は異なり、心と心の認識も異なる。それゆえ、たとえ唯物論的な思想が正しいとしても、物質を認識するモデル・道具と、それとは異質な心を認識するモデル・道具は異なる。そしてそこには矛盾はない。

 このことを理解すれば、心的現象が主として主観的で他人からはうかがい知れない領域を持つ存在であること、心理学のようなモデル・道具で物理学とは異なる手法で理解されうる存在であることが見えてくる。そして、私が分かっていない私の心の領域があることも納得できる。心のモデル・道具には限界があるからだ。同時に、共同体の中で他者とコミュニケーションし共存して生きる私たちにとって、心のモデル・道具(通常は学的なものではなく常識的なもの)は間主観的な共通性を持つ。それゆえ、ある程度は他人の心を知ることもできる。


(2023/11/22記)

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