☆ 行為の基準〜試論〜 ☆

井出 薫

 人びとの行為を規定する基準は何だろう。安定した共同体や組織、制度を構築するにはこの問いに何らかの回答を与える必要がある。もちろん、基準は多数あり、人それぞれ違うし、時代や地域によって変わってくる。だが、おおむね共通していることもある。だから共通点を見出し整理することには大きな意義がある。なお、そもそも「行為とは何か」という哲学的問題があるが本稿では議論しない。ここでは行為とは意図的な振る舞い、それも主として中長期的な効果を持つ振る舞いを意味するものとしておく。また、基準については具体的な基準ではなく抽象的・カテゴリー的な基準についてのみ論じる。例えば、「価値や倫理」を基準の一つとして挙げているが、具体的な価値や倫理、たとえば自由、民主、平等、平和、信仰、公共の福祉や正義の内実などを論じることはしない。

 まず生命の尊重が挙げられる。これは人間の生命性に基づく。猛烈な台風が接近しており洪水や家屋倒壊などの被害が予想される場合、ほとんどの者は家族や同居者と共に避難する。震災の危険性が高いとされる地域では家屋の耐震強化を行う者は多い。多くの人々が平和を望むのも、戦争やテロが人の生命を奪うからに他ならない。また健康の増進を望み、病気や怪我に気を付けるのも背景に生命の尊重がある。さらに自分や家族だけではなく他人の生命も尊重する。また、生命の維持と密接な関係にある生理的欲求の充足も行為の重要な基準となる。

 経済も極めて重要な基準となる。これは人間の生命性と共に社会性に基づく。多くの者は豊かな生活を望み貧困を避けようとする。質素な生活を望む者でも、必要な財を手ごろな価格で購入しようと心を配る。将来、誰もが必要とする財をすべて得られる高度に発展した社会が実現すれば経済的要件は不要となるだろう。だが、そのような社会が実現できるか怪しく、できたとしても遠い未来の話で、それまでは経済は重要な行為の基準であり続ける。

 価値や倫理も行為の重要な基準になる。これは人間が知的存在であることに基づく。多くの者は法を守り、不道徳と批判される行為を避ける。不法行為や不道徳な行為は罰せられたり損をしたりするから行わないという打算的な考えをする者もいるが、多くの者は法や道徳律を守ることは当然であり、不法行為や不道徳な行為は悪だと考えるから避ける。信仰心の篤い者は聖典の教えや儀式を重んじ様々な行為する。職業倫理に基づき自らの命を危険に晒しても任務を遂行しようとする者がいるし、革命運動に殉ずる者もいる。近年は環境への配慮を重視し、自らの行為に反映させる者が増えている。途上国等の貧しい人々、LGBTや障がい者など弱者や被差別者への支援やそれらの人々の権利を重視し具体的な活動をする者も増えている。価値や倫理は政治において最重要な基準だが、政治以外の人間社会の諸活動においても非常に重要な基準となっている。

 様々な感情も行為の基準となる。これは人間の動物性に基づく。たとえば愛情や憧れ、正義感や同情心、憎悪や嫉妬、復讐心、不安や恐怖などは人の行為を大きく左右する。趣味や嗜好も行為に大きな影響を与える。

 権力、権威、地位、名誉などへの欲求もしばしば人の行為を規定する重要な基準となる。これは人間社会の階級制・階層性に基づく。政治家を志す者は心の底から社会を良くしようと思って立候補する場合もあるが、政治家が持つ権力に魅力を感じている場合が多い。官僚を目指す者も同じ傾向がある。民間企業でも激しい出世競争がある。また他人に認められたいという承認願望も行為の重要な要因となる。

 人は利己的な行為をたくさんするが、その一方、しばしば利他的な行為を遂行する。これは人間社会の共同体的性質に基づく。その背景に価値や倫理がある場合、愛情などの感情がある場合もあるが、純粋に利他的な行為が存在する。線路に転落した見ず知らずの者を助けるために自らの命の危険を顧みず線路に飛び降り救助する者がいる。その行為は人間が有する利他的性質が無条件に発露されたものと言ってよい。その行為は、称賛への期待や他者への同情などが動機にはなっていない。ただし、こういう純粋に利他的な行為はさほど多くない。

 ここで挙げた基準は、多くの者にとって行為の基準になっている。ただし、その優先順位は人によって、同じ人でも状況によって変わってくる。

 どのような社会体制がよいか、どのように社会を統治するべきか、という問いは政治学や哲学の永遠の課題だが、このような人の行為の基準(ここでは論じなかった具体的な基準を含む)を考慮に入れる必要がある。さもないと空疎な理想論になるか、ニヒリズムに陥る。かつて教条主義的なマルクス主義者は共産主義革命が起きれば人間の思想や行動は根底から変わるとして、もっぱら共産主義革命を実現することのみを重視した。だが、革命を遂行しても、ただちに人の行為の基準が変わることはなかった。確かに社会体制が変われば、人びとの行為の基準は徐々に変化していく。だが急には変わらない。無理に変えようとすると思想改造のための強制収容所を作ることになる。また、逆に、人の行為の基準が変わっていくことで、社会体制が変わることを期待することができる。たとえば斎藤幸平氏が提唱する脱成長コミュニズムやマルクス・ガブリエル氏が提唱する倫理的資本主義などは、人の行為の基準が変わることなくして実現することは不可能だと考える。それゆえ、人の行為の基準を考察し、評価し、教育や討議を通じて人々に行為の基準の見直しを促すことは極めて重要な作業だと言える。


(2023/11/7記)

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