☆ 普遍文法は脳に存在するか ☆

井出 薫

 チョムスキーは、人間の脳には普遍文法が具備されており、それにより子どもは大人の話す言葉を手掛かりに言葉を覚えると考えた。両親が日本人の子どもでも、米国で暮らし周囲の者がもっぱら英語を話していれば英語を話すようになる。逆に、日本語環境でもっぱら過した米国人の子どもは日本語を喋るようになる。人間以外の動物は人間と長く暮らしても言葉を話すことはできない。オウムは音を真似ているだけで言葉の意味を理解していない。自分が何を話しているか理解している者だけが話していると言える。

 近年、AI技術が進歩し、深層学習など機械学習をベースにしたAIが自然言語を巧みに操るようになっている。深層学習は人間の脳のネットワークを模倣したAIシステムで、普遍文法のようなものはプログラムされていないが、大量の言葉を学習することで自然言語を巧みに操れるようになる。このことは、人間の脳には普遍文法などなく、学習を通じて話すことができるようになるネットワークが存在するだけだという思想を支持するように見える。

 しかし、人間と現在のAIには大きな差がある。それは人間の子どもは少数の学習データで言葉を話すことができるようになるが、AIには膨大な量の学習データが必要だということだ。それゆえ深層学習ベースの生成AIの成功だけで普遍文法の存在を否定することはできない。普遍文法が具備されているからこそ、AIと異なり少数の学習データで言葉が操れるようになると考えることもできる。

 この問題を考えるためにまず必要なことは、「普遍文法が脳に存在する」とはどういうことかを明らかにすることだ。人間の脳の構造と機能を、現在のAIのようにハードウェアとソフトウェアに分離できるのであれば、それは人間の脳に普遍文法というソフトウェアが具備されていることを意味する。だが、人間の脳はソフトウェアとハードウェアを分離できない(注)。AIではソフトウェアをダウンロードして別のハードウェアに移植して同じように機能させることができるが、人間ではできない。
(注)AIはなぜハードウェアとソフトウェアに分けることができるのか。なぜ、人間やほかの脳神経系を持つ生物は、ハードウェアとソフトウェアに分けることができないのか。半導体素子からなるコンピュータ回路では、その電子回路の素子の電磁気的状態を外部から操作すること(プログラムやデータを書き込む、読みだすこと)ができる。だが、脳神経系の神経細胞とそのネットワークの物理的・化学的状態を自由に操作することはできない。そのことは、脳細胞を操作するには量子論的な操作が必要となり、AIの電子回路のような古典物理学的な操作が不可能だからではないかと推測される。そうならば、量子コンピュータの技術が、脳神経系でも使えるのではないかと思われるかもしれない。しかし、脳神経系は量子コンピュータに使えるような存在ではない。それゆえ量子コンピュータのような操作は脳神経系には使えない。いずれにしろ、人間の脳とAIの差異は極めて大きい。どちらも電子回路だというような理解は極めて浅薄なものでしかない。

 それゆえ、こう考えるのが妥当だろう。人間の脳は生まれながら、言葉を学習しやすいように構造化されている。つまりハードウェア的に少しの学習データでも言葉を習得できるようになっている。だから、AIのように大量の学習データを必要としない。その人間の脳固有の構造を、AIでソフトウェア的に表現したものが普遍文法だと言える。

 だが、それは普遍文法が脳に内在することを意味する訳ではなく、AIでシミュレーションするために役立つアルゴリズムであることを意味するに過ぎない。また、チョムスキーの普遍文法が最適なアルゴリズムなのかは分からない。人間の脳はハードウェアとソフトウェアが不可分離で、熱力学的・化学的・電磁気学的ノイズが存在する環境で細胞間の複雑な物理化学的反応と信号伝達で機能する。それをアルゴリズム化できるという考えそのものにも疑問が残る。ただ、それをAIで実現しようとすると、必ず何らかのアルゴリズムが必要となるから近似的な表現形式として普遍文法を採用することは有益だと言える。ただ、先にも述べた通り、それが最適なアルゴリズムか否かは判断できない。最適なアルゴリズムを発見することは極めて難しいと考えられる。それは、計算複雑性理論で論じられるNP完全またはNP困難な問題ではないだろうか。その場合、量子コンピュータが実用化されても解決が困難な問題として残る。

 ただし、このことは、人間と同等あるいは人間を超える自然言語処理能力をAIが獲得することはできないことを意味しない。ただ、人間と同等となったとしても、人間の脳とはシステムが異なる。AIはあくまでシミュレーションをしているに留まる。そして、シミュレーションのためのアルゴリズムの候補が普遍文法で、それは脳に内在するものではない。


(2023/10/21記)

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