☆ 還元論という幻想 ☆

井出 薫

 あらゆる物質は原子の複合体で、原子は電子と原子核(陽子と中性子)からなる。それゆえ、あらゆるものは物理法則に従い運動し変化する。物理法則が全てを決定し、物理学はすべての学問の基礎をなす。

 このような思想を還元論という。還元論には物質がその構成要素からなり、構成要素の挙動で全体の挙動も決まるという還元論と、世界の各階層における法則はミクロの階層の原理=物理学の基礎法則から導出されるという二種類の還元論がある。両者は厳密には異なるが、両者とも、その土台には、究極的な物理理論により森羅万象が原理的にはすべて説明されるという思想があり、特段分けて考える必要はない。そして両者を統一した思想を物理主義と呼ぶ。本稿ではもっぱら物理主義の意味での還元論を論じる。還元論は物理主義に限るものではなく、ヘーゲルの思弁哲学のような精神を中核とする思想、地球や宇宙を一種の生命体(有機体)と捉え生命の原理により世界を説明する思想も還元論の一つに挙げられる。だが、これらの還元論は現代においては支持する者は少なく、一般的な影響もほとんどない。一方、物理主義は、暗黙の裡にそれを支持する者を含めると、現代人の多数意見と言っても過言ではない。それゆえ、本論ではもっぱら物理主義としての還元論を論じる。

 物理主義の背景には次のような思考パターンがある。たとえば細胞を分解していくと、生体高分子や水分子などを経て、最後は原子に至る。その原子は素粒子である電子と(素粒子であるクォークの複合体である)陽子と中性子からなる。だから、素粒子の運動を支配する物理法則によりすべてが決まる。この考えはもっともらしく見える。だが、そこには錯誤がある。

 私たちはこういうシナリオに惑わされる。何もない空間に一つの電子があるとしよう。その挙動は量子論により厳密に規定される。ここに一つの陽子を追加する。この二つで水素ができるが、これも量子論で記述できる。さらに水素と酸素をそれぞれ一つ追加すると水ができる。これも厳密解は得られないが、原理的には量子論で記述される。これを繰り返して、どんどんと新しい粒子を追加していけば、いずれ細胞に到達する。だから、細胞も技術的には厳密解は得られないにしても原理的には量子論で記述できる。同じ論理で細胞の集合体である人間など生命体についても同じことが成り立つ。無機的な世界でも全く同じことが成り立つ。このような世界像から物理主義が生まれてくる。だが、これは錯覚に過ぎない。

 細胞は、電子と陽子と中性子を組み合わせることを繰り返して作られるものではない。細胞はプラモデルではない。細胞は細胞から生まれる。宇宙の歴史を辿っても、素粒子を一つ一つ組み合わせて様々な物質が作られたわけではない。ビックバンの最初期に軽い元素が誕生し、その後に登場した恒星の進化の過程で様々な重い元素が誕生したと考えられている。だが、その過程ですら、素粒子を一つ一つ足し合わせることで様々な元素が誕生したわけではない。いわんや、マクロの物質、たとえば細胞などは、無数の素粒子とそれらを媒介する場の中で統一体として誕生したもので、素粒子の足し合わせで誕生したものではない(注)。つまり、細胞のプラモデル理論は現実を反映しない。物理学においてマクロとミクロの境界が不確定であることもそれを示唆する。さらに、物理学では摩擦のない世界でまず原理や基礎法則を発見し、そこから摩擦を二次的に導入する。しかし、現実世界では摩擦は始めから存在するから、摩擦のない世界で成立する物理法則がそのまますべての現象を説明する基礎となるという考えには特段の根拠はない。全体をより正確に説明する理論があり、その近似として摩擦のない世界の法則が得られると考えることもできる。散逸構造の研究などで著名なプリゴジンなどがそのような説を唱えている。それが正しいかどうかは別としても、還元論は確かな根拠がなく、ただ誤りであることが証明されていないに過ぎない。
(注)宇宙の進化の過程で最初から細胞が存在したわけではない。最初の細胞は宇宙進化の過程で誕生した。だとすると、細胞はその素材である水分子や生体高分子の寄せ集めから進化したものだと言える。だが、そのことは、その進化の過程を、素粒子を支配する基礎的物理法則で説明することができることを意味しない。この点については、本論の最後で述べる。

 素粒子、原子、高分子、マクロな物体、生命体、人間、地球、恒星、宇宙など自然界には様々な階層があり、それぞれ独自の構造や運動を有する。そして、それに基づき様々な学問領域が存在する。人間の場合は社会を形成し、人文学や社会科学、哲学、倫理学、心理学など自然科学とは一線を画する学問が必要となる。また、各学問で広く有益な道具として活用される数学や論理学という学問も存在する。それが現実であり、物理学の基礎法則にすべてが還元されるという物理主義は幻想に過ぎない。確かに、物理学がすべての自然科学が守るべき原則を提示することはある。エネルギー保存則がその一例で、これに反する理論は、どの自然科学の領域でも正当とは認められない。だが、そのことは物理学が全てを導くことを少しも意味しない。

 還元論的な手法が研究に役立つことは多い。だが、そのことは還元論という哲学的思想を肯定するものではない。還元論的な手法は一つの方法に過ぎない。ところが、還元論を普遍的な原理であるかのように誤解するから、「原子分子の集合体である人間が痛みを感じるのはなぜか?」などという問いが現れる。だが、それは疑似問題にすぎない。痛みという現象は原子分子という階層を記述する理論の研究対象ではない。ウィトゲンシュタインは『論考』で、「現代の世界観はすべて自然法則を自然の説明だとする誤りを犯している」と指摘している。まさしく還元論はこの誤りに基づいている。物理法則は物理現象を記述するためのモデル・道具であり、自然そのものに内在する原理ではない。ところがそれを内在する原理だと考えるから、「基礎的な物理法則からすべてが導出されるはずだ、さもないと世界の統一性・整合性が崩壊する」と思えてくる。だが、それこそまさに錯覚なのだ。物理学がどこまで進歩しようとも、それが物理現象を認識するために人間が使うモデル・道具であることは変わらず、自然そのものに内在する究極的な原理などになることはない。先に最初の細胞が誕生した過程をどう説明するのかという問題を(注)で提起した。それは細胞誕生を説明する適切なモデル・道具を構築することで解決される。それは決して基礎的物理法則に還元されるものではない。


(2023/10/3記)

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