☆ 権力の意味 ☆

井出 薫

 権力という言葉は普段あまり良い意味では使われない。強い者が力に物を言わせて、自分の意思を弱い者に、その意に反して押し付ける、たいていの者は権力と聞くと、こういう印象を抱く。

 だが、権力には別の意味もある。ある政策課題において意見を異にする者たちが対等な立場で議論し、その中で最も説得力がある議論を展開した者の意見が政策として採択されるとしよう。このとき、採択された意見の持ち主は、自説に基づき、他の者に行動を促すことができる。これも、その者が有する権力と言ってよい。権力は英語でPowerだが、Powerとは必ずしも否定的な意味ではない。権力には、暴力的・抑圧的な悪しき権力もあれば、公正な良い権力もある。

 すべての者が対等な立場で徹底的に議論し、互いに意見を修正しながらコンセンサスに至ったとき、そこには、公正な権力が存在する。これまで、多くの者、特に筆者と同年代、教条的なマルクス主義が強い影響力を有していた時期に青春時代を過ごした者たちは、筆者を含めてマルクスやエンゲルス、レーニンの国家観(支配階級が被支配階級を支配・搾取するための暴力装置という国家観)に影響され、権力=暴力装置という図式に囚われてきた。しかし、このような図式は偏った見方でしかない。

 この点を明確に指摘したのが、アーレントだった。彼女は、良い政治においては、権力は卓越性、正当性を意味し、良い権力があってこそ、良い公共圏が成立すると考えた。戦後の日本で、マルクス主義が多くの若者の心を捉えた時期があった。しかし、マルクス主義のみが正しい、その正しさは絶対的なものであるとする独善的な態度が左翼陣営などに蔓延し、批判者はすべて反動と断罪され、さらには人権や人命を軽視する風潮が生まれた。そして、それが内ゲバによる虐殺などを生み出し、左翼全体が人々の支持を失う原因になった。日本の戦後史は、アーレントの指摘が的を射ていることを示している。そこにあるのは既存の権力への憎しみだけで、良い権力が欠けていた。

 人々は、みなそれぞれ唯一無二の交換不可能な一回限りの生を送る。そして、そのことについて人々は全く対等な立場にある。それをアーレントは人間存在の複数性と呼ぶ。それは決して人間一般、抽象的な「人間」に還元されることはない。だから、一つの意見、一つの歴史観ですべてを決めてしまうことなどできない。望ましいのは、それぞれ異なるが、異なるということにおいて平等である人間が、互いに相手を認め合って議論を展開し、その中で、卓越した者の意見を核に様々な課題に対処していくことだ。そこにある権力は、暴力ではなく、互いに異なる存在、本質的な複数性を有する人間が公正な共同体を築いていくために欠かせない存在と言えよう。

 いずれにしろ、権力=暴力という偏った図式に囚われ、あらゆる権力を不正と解釈し、権力を憎んで、かえって最悪の暴力集団へと転落する組織が、思想の左右を問わず、続出してきたことを忘れてはならない。国内でも、暴力集団に堕落した新左翼など、その例は枚挙に暇がない。確かに、社会のすべての成員に開かれ、暴力を排した対等で公正な議論が展開される場を実現することは難しい。それゆえ良き権力などというものは存在しえないとする意見もあろう。だが、私たちは、この壁を超える必要がある。さもないと、いつまでたっても暴力としての権力しか期待できない。


(H30/9/23記)


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