☆ 法の位置 ☆

井出 薫

 ヘーゲルは、法を客観的精神の現象だとみなした。マルクスは、法は政治と並んで、生産力に規定された生産関係という現実的物質的な土台(下部構造)に規定される上部構造の一部だと主張した。ヘーゲルでは法は社会における中心的な存在で、マルクスでは法は二次的な存在となる。では、現代において、法は如何なる地位を占めていると考えるべきなのだろう。

 現代の立憲民主制において法は卓越した地位を占める。「法の支配」は民主制社会の基本であり、保守派の安倍首相も外交で「法の支配」を強調している。「法の支配」を強調した思想家として(保守派と目される)ハイエクを挙げることもできる。人ではなく法が統治者を含め全ての者を支配することで、専制政治を回避し、全ての者の人権を擁護することが可能となる。そして、不完全とは言え、先進国を中心に多くの国で法の支配という思想が社会に浸透している。それゆえ、現代世界において、法はヘーゲルの構想通り、歴史と広く市民のコンセンサスを土台とする客観的な精神という性質を帯びており、社会に巨大は影響を与えていると評価できる。

 しかし、法そのものは、明文法にしろ不文法にしろ、記号の集合体でしかなく、それ自体が何か力を持つ訳ではない。人々が遵法精神を発揮して初めて法はその威力を示す。それでは人々が遵法精神を発揮するのは何故だろう。ヘーゲルにおいては、それは世界の本質に基づく歴史的必然だということになる。しかし、法の支配が世界に浸透しつつも、常に不法行為が後を絶たないこと、何が正しい法かという問題に明確な解決が得られないことから、ヘーゲルの答えをそのまま肯定することはできない。

 では、マルクスに倣って、法は生産関係という現実的土台に規定された二次的存在に過ぎないと考えるべきなのだろうか。資本制は奴隷制や封建制のように、権威や暴力による勤労大衆の直接的な支配、搾取という形態を取らず、対等な人間関係という見かけの下で、ソフトに支配と搾取を行う。そして、このソフトな支配と搾取を可能とするのが、法の支配という思想であり、その下で育まれた人々の遵法精神だ。こういう見方も確かにできる。だとすると、現代社会における法は、その本質として、資本主義社会に固有なイデオロギーに過ぎないということになる。そして如何なる社会形態においても、法とは二次的な存在に過ぎないということになろう。封建制や奴隷制では法とは支配者の意志や観念の表現でしかなかった。未来の共産制では、全ての者は強制ではなく自然に協力し合うようになり、法は便宜的なものでしかなくなる。「赤信号では停止」これが法の典型例となろう。

 だが、このような考えにも同意はできない。現代社会において、法は資本家階級や大企業の利益だけを代弁している訳ではない。法は人々に支配者と闘う武器を与えている。また、教育の普及やメディアの拡大、情報アクセスの容易化で、人々の認識能力は高まっており、一方的に資本主義的イデオロギーに洗脳されることはない。法は経済的領域の無力な反映ではない。

 法なしには如何なる生産関係も安定的なものとして存在し得ない。生産関係だけではなく、社会そのものが成り立たない。社会とは実は(単純な規則の集合体を含めた広義の)法の体系をその不可欠の要素として成立している。法が在って初めて、人間の集団は自然の群れから社会的存在となる。そして個体は個人になる。つまり、法は自然的な人間集団を社会へと昇華させる鍵となっている。だが、それはヘーゲル的な人間を超越した精神の存在を意味するものではない。人間集団を超えて法が存在する訳ではなく、人間活動の様々な相の一つとして法が在る。

 そう考えれば、人間集団の最重要な活動である経済と法が密接な関係にあることは容易に理解できる。人間が単なる自然的な存在から社会的な存在となるとき、そこには法が介在し、その法を介して生産活動が行われるようになる。それは生産活動の合理化の始まりだと言ってもよい。そして生産活動の合理化で、人間という種は他の生物種とは異なる独自の進化が可能となり、そのときから人間社会の歴史が始まる。その意味で、経済は社会と歴史の土台であり、マルクスの言うことは間違っていない。だが、法は経済の受動的な反映などではない。法は経済と共に在り、共に発展する。そして、社会が発展して、その生命の維持の必要を超えた生産が可能となったとき、人間社会は飛躍し、社会の様々な領域、宗教、政治、芸術などが花開き、同時に法も他の領域から相対的に自律した存在となりそれ独自に発展を遂げることになる。そして、法は時代を背景として、同時に時代を形作りながら、現代においては、法の支配という重要な地位を占めるまでに発展した。

 このように法は人間社会の要というべき存在であり、同時に、経済を中心に、社会の他の領域全てから影響を受ける存在でもある。


(H26/6/1記)


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