☆ 技術とは何か ☆

井出 薫

 技術とは、哲学にとって最大の難問だと言われることがある(中村雄二郎など)。哲学は専ら、思考の力と先行する様々な書物を読むことを研究の手段とする学だから、現実かつ具体的に使用される技術とはそもそも親和性が低い。だから当然、哲学にとって技術は苦手科目となる。科学哲学や科学論には優れたもの(たとえばクーンのパラダイム論など)があるが、技術哲学とか技術論は余り見るべきものがない。一般的に、哲学者のイメージと言えば、運動が苦手な文学青年というものになろう。哲学者のような風貌のマラソンランナー(アベベなど)はいるが、実際の哲学者がマラソンや陸上100メートルを走るところを想像することは難しい。ハイデガーやウィトゲンシュタインが五輪の100メートル競走に出場し、観客席に向かって満面の笑みをたたえながら手を振るなどという場面は、まったくのパロディーでしかない。

 技術論(注)といえば、ハイデガーが思い浮かぶ(たとえば「技術への問い」)。ハイデガーの議論はいつもながらに難解で門外漢は溜息をつくばかりだが、「(現代)技術」を、存在者をその本来在るべきところから強引に引き離し手段化するものとして批判的に論じていると言ってよい(と思う)。フーコーなどはハイデガーの批判を継承し生権力(生命を操作対象として支配する権力)を批判する。たとえば、現代人は生命の尊さを盛んに強調するが、その一方で、生命を産業あるいは日常生活において、使い捨て可能な道具や材料として利用している。生態系破壊だけではなく、遺伝子工学、臓器移植などもその例として挙げることができよう(ただし、私自身は遺伝子工学や臓器移植を肯定する)。また、現代ほど健康が尊ばれ、その実現が希求される時代は過去にはないが、それも産業や戦争(あるいは五輪でのメダル競争など)の手段に過ぎないとみることもできる(そして、そのことを「金メダルラッシュ!」、「素晴らしい成果!」などと大宣伝することで隠蔽する)。
(注)技術論がしばしば迷走する理由に、日本語の「技術」が、外国語の様々な言葉の翻訳語として使われていると謂う事実がある。また逆に日本語の「技術」を外国語に翻訳するときにも様々な言葉が使用される。サッカーや野球などスポーツ選手の技も日本語では「技術」(スキル)と呼ぶ。そうしたことが、技術論を益々分かり難くしている。そこで、ここでは、「技術」とは、近現代科学(主として自然科学)を意識的に応用し、産業や日常生活に(物質的かつ生産的側面において)役立つ「技術」、しばしば「科学技術」と呼ばれているもの、並びに、それへと繋がっている先行する時代の技術(古代・中世の農耕、測量、建築、武器、印刷、医療など)を意味するとしておく。但し、近代以前の技術には呪術的な要素があるので、それをどう考えるかという難しい問題がある。しかし、ここでは論じない。(と言うか、論じる能力が私にはない。)

 ハイデガーやフーコーの批判は鋭い。技術の進歩と普及が様々な社会的問題を引き起こし、しばしば人々の絆を深めるよりも寧ろ弱め、芸術を浅薄なものにし、生命を技術的に操作可能なものとした、などという指摘はたしかに現代社会に的中する。それに対する批判的な評論も欠かせない。だが、技術とはそういうネガティブなもの、資本主義(あるいは共産主義を含めた産業主義)の隆盛に力を貸すだけの怪物に過ぎないのだろうか。技術とは、全ての存在者を商品という個性を喪失した数学的集合へと還元するものなのだろうか。こう言うと、「いや、ハイデガーやフーコーはそのようなことは言っていない、ただ技術が孕む危険性に注意を促しているのだ」と反論される。しかし、ハイデガーやフーコー、彼らの考察を継承する者たちが、技術の否定的な側面を強調していることは間違いない。

 現代人の多くは、科学技術を手放しで称賛している訳ではなく、その否定的な側面にも目を向けている。ハイデガーやフーコーが語っていることは、その語りの流暢さ(難解さ?)故に、如何にも深遠かつ斬新な批判を展開しているように見えるが、現代人ならば誰もが知っている科学技術の負の側面に過ぎないのではないかという疑念が残る。ハイデガー、フーコー、その他多くの優れた哲学思想家たち(たとえばアドルノ)が、技術について批判的に語り、その著作の量は膨大なものとなっている(ただし、売れているかどうかは知らない)。それにも拘わらず、日本だけではなく諸外国でも、多くの人々が科学技術に期待し信頼を寄せている。この事実をどう考えればよいのだろう。哲学者が語る真実が、資本家階級やそれに与する科学者・技術者あるいは通俗的な者たちの大宣伝により隠蔽されているということなのだろうか。

 そういう面も確かにあるに違いない。だがそれだけでは現代人の信条と言動を説明できない。そもそも人間が(自然から離れた独特な存在としての)人間となったのは、自然状態では存在しない道具を作り出し、それを用いて生産活動と生活圏を拡大したことに始まる。その成果は大規模な農耕へと到達し、大きく自然を改変することになる。そのとき文明が誕生したと言ってよい。それは時には破壊的で人間そのものを滅ぼすことになる。自然を大幅に改変した古代文明の多くが隘路に陥り滅びて行った。しかし、そうした中で、人間は失敗を繰り返しながら、より安定した産業と社会を目指し、それが近代へと繋がる。「近代とは西洋固有の歴史的状況だ」という意見もあるが、それはどうだろう。西洋で西洋近代が生まれなければ、中東で、あるいは東アジアで、あるいはまた別の場所で、時間的な遅れはあったかもしれないが、西洋近代に匹敵する機械文明が、近現代的科学技術が誕生し発展したに違いない。原始的な道具とその延長線上にある現代の巨大科学技術とは、人間存在固有の必然とみることができる。特定の哲学的存在論(存在了解)が現代科学技術を生み出したという観念論的な思想が正しいとは言い難い。技術と産業の進歩と拡大の過程で、科学と技術の進歩を促すような哲学思想、存在了解が並行して歴史に登場してきたとみる方が事実に即していると考えられる。そして、そういう観点から技術を論じ、そのうえで、技術の否定的な側面の評価を行う。こういう遣り方こそが意義がある技術論に繋がるように思える。つまり技術の(思想に先立つ、あるいは思想と並行する)原初性と、技術による生産活動と生活の可能性の拡大という肯定的側面を最初に論究し、しかる後に、その批判的な論評をする、こういう経路が意義ある技術論へと繋がる。

 地球史を顧みるに、原始の地球では大気中や海中には酸素はほとんどなかった。そして最初の生命体は、この酸素がほとんど存在しない環境(嫌気的環境と呼ばれる)に適応していた。そこに、酸素発生型の光合成を行うシアノバクテリアの祖先が登場して、酸素が増加することになる。酸素は高い化学的活性を持つために(火事や爆発で明らかなように)、嫌気的環境に適応している多くの生命体にとって極めて有害な物質だった。その結果、多くの生物種は絶滅するか、その生活圏を縮小した。酸素を発生するシアノバクテリア自身にとってすら、最初のうちは、酸素は猛毒だった。だが、この酸素の強力な化学的活性からエネルギーを得る手段(化学的回路)を生命体は獲得した。その結果、地球は酸素に満ち、膨大な生物種が繁栄する生命の惑星へと進化する。人間の技術もまた酸素に似たところがある。最初のシアノバクテリアにとってそうだったように、人間もまた自らが生み出した技術という産物に悩まされる。だが、いずれ私たちは課題を克服し、技術を地球の発展に役立つように使うことができるようになる。今はその時代への過渡期なのだ。

 もちろん、これには容易に反論がある。たとえば「シアノバクテリアと酸素は地球生命体の繁栄に繋がった。しかし、シアノバクテリアと酸素が織り成す地球史の真実が、人間の技術に当てはまる保証はどこにもない。ハイデガーやフーコーの哲学は、酸素で滅んだ嫌気性生物のように、人間の技術が地球生態系全てを巻き込んで滅びの道を進む可能性があることを示唆している。そして、今、それを認識することこそが重要なのだ。」と指摘することができよう。

 確かに未来を楽観することはできない。しかしながら、私たちの自然理解は以前よりも間違いなく進歩している。科学技術の暴走を制御するための社会的仕組みも進歩している。その成果で私たちは自然並びに社会環境へより効果的な方法で介入することが可能となっている。ただ、科学技術の適切な活用を阻む様々な社会的課題が存在する。しかしそれを解決不可能な問題と捉える必要はない。そして、それを哲学的な普遍性の眼差しで捉え解決しようとするのではなく、課題ごと個別に解決していくこと、これこそが実りある未来を約束する。確かに、全ての課題を解決することはできないかもしれない。破滅の道を進む可能性もある。だが今から必要以上に悲観的になる必要はない。技術の進歩と普及に明るい未来を見い出し、希望の哲学(希望の技術論)を構築することは可能だと考える。その証の一つとして、新しい技術は、常に、新しい芸術(写真、映画、CGなど)を生み出してきたことを挙げておこう。技術進歩があるからこそ芸術と美は枯渇することがない。技術は人々の幸福と繁栄、社会の公正を保証するものではないが、その可能性を高めることに貢献できる。


(H26/1/3記)


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