☆ カントとヘーゲル ☆

井出 薫

 カントとヘーゲルは、ドイツ観念論の開祖と完成者として西洋哲学史の最高峰に相並ぶ存在とされている。カントの哲学なくしてヘーゲル哲学はなかった。カントの哲学を出発点としながらその徹底的な批判を通じてヘーゲルは壮大な哲学体系を築き上げた。だが両者には大きな開きがある。

 カントは、ニュートン力学以来の自然科学の成果と優位性を認め、哲学に、科学の正当性を検証・保証する理性の法廷という重要な任務を付与したが、伝統的・思弁的な哲学の自然科学に対する優位性を放棄した。自然がどのようになっているのか、どのように変化するのか、これは科学が解明すべき課題であり、哲学の任務ではない。カントの登場で、哲学は哲学固有の課題と方法を持つ一学問分野へと変容した。

 これに対して、ヘーゲルは自然科学が一定の成果を挙げていることは認めたものの、あくまでも哲学の科学への優位性、先行性を堅持した。ヘーゲルの壮大な哲学体系を著した「エンチクロペディー」は、論理学、自然哲学、精神哲学の3部門からなり、自然科学は(ヘーゲルの)自然哲学に基礎付けられ、演繹されるとされている。事実、光や熱、力学的運動が自然哲学的考察から説明されている。経済学、法学など人文社会科学も精神哲学に基礎づけられるものとされる。つまりヘーゲルにおいては、全ての個別科学は依然として哲学の一分野と位置付けられる。哲学が全ての学を導き出すと言い換えてもよい。これは、カントの哲学観とは決定的に異なる。

 カントからすれば、ヘーゲル哲学は、経験に基づき実証的に解明すべき問題を、哲学的思弁により解決しようとする悪しき形而上学となる。一方、ヘーゲルから見れば、カントは哲学を矮小化したものとなる。

 科学技術が社会を支配していく中、ヘーゲルは多くの思想家に大きな影響を与え続けている。現代の多くの哲学者は、自然科学や技術、現代的な経済学や政治学、法学などを総じて批判的に評価するが、その際、ヘーゲルを引用することが多い。ヘーゲルは依然として巨大な存在で、その影響は表面的にはカントを凌ぐ。事実、大型書店の哲学思想棚を覗くとヘーゲル関連の著作の方がカントのそれよりも多いことに気が付く。

 しかし、現代社会では、人々はそれを意識していないが、カント的思考が、ヘーゲルのそれよりも圧倒的に支持されている。カントは科学の正当性を認め、哲学的思弁で科学の課題に過剰に介入することを厳しく戒めた。カントは「判断力批判」で生命の本質や起源などについて相当に突っ込んだ議論を展開している。そこでは「純粋理性批判」では否定的に論じられた目的論的発想が溢れている。しかし、それでもカントは目的論的、哲学的思弁により生命現象の解明を目指すことを拒否する。そのような発想は批判哲学以前の悪しき形而上学への後退だとカントは考えるからだ。そしてほとんどの現代人はこのカントの考え方に同調している。ただいまどき(ドイツですら)カントやヘーゲルの哲学などに興味を持つ者はごく限られているから、皆そのことに気が付かない。しかし認知科学や正義論でカントがしばしば引用されるように、現代思想へのカントの影響は大きい。大きいと言うよりも、すでに私たちの常識の一部になっていると言ってもよい。

 ヘーゲル哲学は神話的な存在となり、カント哲学は科学や政治、道徳に吸収された。ヘーゲルは哲学者や哲学に関心を持つ読者に大きなインスピレーションを与え続けている。科学技術が現代社会で猛威を奮い、人々が科学技術至上主義的な考えに毒されていく中、ヘーゲルはハイデガーと並んで現代へのアンチテーゼとして大きな意味を持つ。一方カントは私たちの常識の中で生きている。いずれにしろ、哲学など今の時代には役立たないとほとんどの者が考えているが、実際はそうではない。カントとヘーゲルに限らず、他の多くの哲学者も、現代人の思想と行動の中に生きている。私たちの思想と行動の原点を探り、その欠点と改善への道を探るうえで、今でも哲学することの意義は小さくない。


(H25/7/3記)


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