☆ アーレントの労働概念 ☆

井出 薫

 アーレントは、人間の活動的生活を、労働、仕事、活動に分類する。アーレントにとって「労働」は生命維持と種保存のための生物学的活動に過ぎず、それゆえに自然的存在に留まる。アーレントは、労働よりも仕事を、仕事よりも活動を上位に置く。そして、近代の病は労働の過大評価にあると論じる。

 アーレントの労働概念は極めて狭い。「労働」は単なる生物学的活動ではなく、他者が制作した道具を用い、(分業・協業における)他者とのコミュニケーションを通じて成立する。それはアーレントが分類する仕事や活動の基盤であるだけではなく、それらを自らのうちに含む優れて社会的概念であり(注)、自然的存在としての人間と公共的存在としての人間を結合する鍵となる。そして、そのような鍵であることにより、労働は拡大する商品経済を支え、資本主義的生産様式を可能とするばかりではなく、政治・法・文化を創造・再生産する。確かに労働が全てを支配する訳ではなく、様々な活動が存在し、独自の意義を発揮する。全てが労働へと還元される訳ではない。芸術や学問は労働とは一線を画する意義をもつ。政治も同じことが言える。そうは言っても、それらの分野ですら、労働の基本的な要件、道具とコミュニケーション(並びにその手段としての言語)から、助けと手掛かりを得るのであり、その意味で労働を超える地平に存在する訳ではない。
(注)アーレントにおいては、人間的世界として、私的領域と公共的領域が最初に定立され、「社会」とは私的な領域が公共的な領域へ侵入することで生じるものとされている。しかし、このような「社会」概念はアーレント独自のものであり、一般的な思想とは相容れない。本稿では一般的な意味で「社会」という表現を使用する。

 このようにアーレントの労働概念は極めて視野が狭く、労働の本質を、そして労働を基盤とする社会(それは公共的領域を含む)の本質を的確に把握することができない。

 それでも、アーレントの批判には意義がある。マルクスやエンゲルス、その後継者たちは、アーレントが論じた狭い意味での(=自然的意味での)労働を過大評価する。それは労働者階級を神格化し、あたかも全能の存在であるかの如く論じることに繋がる。そして、この神話の根拠は生物学的事実、人は動物であり労働して生きていかなくてはならない、という自然的な事実に帰着する。しかし、それだけでは、人間は人間ではなく、人間の集団は公共でも、社会でもない。それがより高次の場所、自然に還元されない場所を共有できるのは、自然的意味での労働に還元しきれない様々な活動を人々が遂行するからだ。ところが、マルクス主義者たちはそのことを十分に理解せず、人間の自然的性質を基に社会を論じようとするために、理論的にも、実践的にも多くの誤りを犯す。労働者の過大評価は、知識人や学者、芸術家の役割の過小評価に繋がり、共産主義国ではしばしば彼(女)らは弾圧される。自然的意味での労働の過大評価は同時に、あらゆる存在を労働の対価へと矮小化する。しかもその対価は本質的に貨幣で表象するしかない。かつてマルクス主義者は、レーニンがその典型であったように、貨幣を資本主義が廃棄されれば消滅するものとみなしていたが、マルクス主義者自身が皮肉にも、労働の神格化を通じて貨幣を神格化することになる。さらに、労働の神格化は、独裁政治を通じて、人権無視と統制経済による人々の抑圧へと転落する。

 アーレントは、その労働概念とそれに対する批判的分析を通じて、こういう教条主義的なマルクス主義やそれに類する思想の欠陥を鋭く暴きだしている。また、アーレントの批判は、現代経済学とそれが称揚する自由主義経済にも的中する。そこでも自然的な意味での労働概念が罷り通っているからだ。アーレントの労働概念と労働批判には多くの欠点があるが、それでも現代的な意義は大きい。


(H24/3/21記)


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