☆ 経済学への疑問 ☆

井出 薫

 経済学が社会を認識する上で有益な学問であることは誰も否定しない。しかし現代の主流派経済学には素人の目から見ても多くの難点がある。

 難点があることは誰もが知っている、どんな学問にもモデルを組み立てるために現実から多くの物を捨象する必要があり全てを説明できる訳ではないと反論されるかもしれない。しかし、現代経済学には本質的なところで誤りがあるように思える。マルクスの資本論が「労働価値説」という体系の根幹に関わる部分に誤りがあったように。

 「比較優位の原則」、「最適資源配分」、「厚生経済学の第一原理」これらの美しい言葉で飾られる現代主流派経済学は、「市場の失敗」という表現で万能ではないという注釈を付けているとは言え、自由市場の優位性を高らかに謳っている。市場の失敗への対応や経済発展のために政府の規制や補助金が一定範囲で必要になることを肯定しつつも、自由な市場が世界の富を増進し人々の暮らしを良くするという思想が現代経済学の根本原理となっている。しかし本当にそうなのだろうか。

 日本の林業は崩壊状態にある。比較優位、最適資源配分などの現代経済学の思想に基づけば、グローバルで自由な市場を通じて海外から木材を輸入する方が良いという結論に至る。しかし放置された森林から放出される花粉で多くの人が毎春花粉症に悩まされている。花粉症による生産効率の低下は馬鹿にできない。花粉症関係のビジネスが盛んになって景気を支えるなどという珍説もあるが、健康の重要性、医療保険への負担を考えればマイナス効果であることは明白だ。

 これに対しては、「このような効果を現代経済学は外部不経済というモデルで織り込み済みだ。従って、花粉症のようなマイナス効果も、又、現代経済学で説明され改善策が立案できる。」と反論されよう。しかし、この現代経済学の論理には暗黙の前提がある。このマイナス効果が、技術的に困難だとしても、理論的には「数値化(定量化)できる」ものとして考えられている。なぜなら数量化不可能であるとすれば、価格が基準となる定量的な需要・供給モデルへの修正として捉えることが不可能となり、市場の失敗として理論化される定量的な外部経済(又は外部不経済)の数理モデルは成立しないことになるからだ。勿論「たとえ現実的には定量化できないとしても、仮想的に定量化し、モデルを組み立て、その効果を定性的に説明することはできる」と再反論はできる。しかし、このようなマイナス効果が定量化できないものだとしたら、このような仮想的な想定に基づくモデルが現実を説明する上で合理的なモデルである保証はなくなる。どんな理論でも、拡大解釈をしていけば全てを説明できるようになる。ヘーゲルの弁証法などその点で無敵だ。どんなことが起きてもヘーゲルは説明できる。しかし全てを説明できるが故に、ヘーゲルは何も説明できない。あらゆる命題を証明できる数学体系は意味をなさない。命題が真か偽かを判別できてこそ数学には意味がある。ヘーゲルの弁証法は全てを証明できる(擬似)数学体系と同じように意味がない。物理学が信用出来るのは、明日起きることを予測できるからではなく、明日こういう事象が生起することはありえないと言えるからだ。だからこそ私たちは安心して飛行機や船に乗り高層ビルで暮らすことができる。同じように経済学が意味をなす体系であるためには明確に否定できる命題がないといけない。しかし「定量化できないものを定量化できると仮定すれば合理的な説明できる」などという理屈を振りまわすようでは、サミュエルソンが愚者の黄金と皮肉ったヘーゲルの弁証法、あるいは、あらゆる命題を証明する擬似数学体系と同じになる。現代の主流派経済学はマルクスやヘーゲルを否定し、自分たちの合理性と高度な数理学的厳密性を誇示するが、その実態はマルクスやヘーゲルとさほど変わらない。寧ろ人間社会の現実に対する深い考察に基づく理論を展開したマルクスやヘーゲルの方が数学的には稚拙だとしても遥かに思想的には深く、又、より現実に肉薄することができる。

 そこで問題は、経済活動の副産物と言うべき花粉症などの効果を定量化することが本当に不可能かどうかということになる。上ではそれが不可能だという前提で現代経済学を批判した。しかし技術的には正確な定量化が困難でも、理論的には定量化可能であるとすれば、モデルの精度は下がるとして現代経済学は妥当な理論になり、外部不経済、外部経済という拡大した経済学モデルの有効性が維持できる。

 この問いに正しい解答を与えることは容易ではない。しかし、次の2点から原理的に定量化不可能とみなすべきだと考えられる。花粉症の影響は広範囲でしかもその影響の性質も無限とも言えるほど多彩だ。風が吹いて桶屋が儲かるの喩えのように、それが原因で何を引き起こすか予測が付かない。スポーツのビックイベントで思わぬ番狂わせを引き起こし、それが社会的な紛争の火種となる可能性だってある。つまり花粉症の影響は空間的にも時間的にも開いており、しかも様々な要件や帰結が複雑に絡み合っている。従って原理的にも定量化不可能だと考える方が自然と言える。しかし、この論拠だけならば複雑性やカオスなどで数理化、定量化できると反論することができる。だが、もう一つ決定的な理由がある。それは、花粉症の影響が、外部から観測できる物理的効果に限定されず、イデオロギー的、観念的、心理的な領域への効果を及ぼすことがあるという事実だ。花粉症という概念が、あるいは、花粉症に悩む者の苛立ちが、自然科学的な言葉では表現できない心理的、概念的な効果を引き出すことがある。いや、そもそも花粉症という概念自体が、すでに自然科学的な表現を逸脱している。なぜなら花粉症と呼ばれる症状を病的なものとみなさなくてはならない自然科学的な必然性はないからだ。自然科学的な領域から逸脱したものを定量的に表現することはできない。たとえば人々の信仰心の篤さを定量化することは不可能だ。不可能どころか冒涜的な行為とも言えよう。人が神に祈りを捧げているとき本人の脳をモニターして、様々な変数値を測定することはできる。しかしその数値群と、信仰心の篤さとを結ぶ付けることは決してできない。脳内の生理学的変数の値は、生理学と近隣領域の範囲を超えて意味を持つことはない。信仰とは脳の生理学的事実とは全く異質な存在だ。一方、花粉症に悩まされる者の苛立ちは信仰とは全く異なるが、範疇から言えば、脳の生理学的現象よりは信仰の領域に近い。それは自然科学的な事実ではない。こうして、経済活動が引き起こす副産物には、決して定量化できないものが存在することが示している。従って、最初の問い「定量化できないのか?」に「定量化できない」と答えることができる。

 実は、外部不経済や外部経済など外部性の領域のみならず、純粋な市場経済学の内的な概念、たとえば需要、供給、価格、利得などの概念がすでに、定量化不可能な部分を含んでいる。そのことは本稿での議論を様々な経済学的な概念に適用することで明らかになる。このことは、経済学がすでにその最も簡単なモデルにおいて、自然科学とは異質な学問であることを示している。ところが、現代経済学は、専ら自然科学との共通性を強調し、両者の差異を複雑さの度合いの違いに還元(=隠蔽)する。勿論「規範経済学」のような言葉が示す通り、経済学(やその他の社会科学)が自然科学とは異なる規範的な性格を持つことは誰もが認めている。しかし、その場合でも、現代経済学者の多くは、理論認識(存在)と実践(当為)を峻別するカント哲学に倣い、理論と経済政策や経済的活動など実践を分離して、前者の純粋数理学的性格を強調する。しかし、このような論理は、経済学の最も原初的な概念であり理論体系の土台である需要、供給、価格、利得などの基礎概念ですら純粋に定量的なものではありえないことを考慮すれば、成立しないことが明らかになる。

 現代経済学が有益であり、政策立案者や企業経営者のみならず、家計の遣り繰りをする者、総じて全ての市民が学ぶべき学問であることを否定するつもりはない。しかし、その一方で、現代経済学の体系には多くの限界と誤りがあること、それが物理学や生理学のような自然科学とは異質な学問であることを知ることが大切になる。そして、現代経済学の処方箋を頼りにするだけでは、誰もが安心して暮らせる平和で豊かな世界は実現しないことを悟る必要がある。


(H23/11/6記)


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