☆ 大革命はあるか ☆

井出 薫

 9月23日、度肝を抜かれるニュースが飛び込んできた。CERN(欧州原子核研究機構)の研究チームが、「ニュートリノの速度が真空中の光速よりも速くなることを発見した」と発表したのだ。本当だとしたら科学の歴史を根底から塗り変える大発見になる。

 現代物理学は、特殊相対論とゲージ理論を取り入れた量子論=(相対論的)場の量子論と、(現時点では)場の量子論に上手く組み込むことができないでいる一般相対論の2大原理からなっている。この2大原理を統一すべく物理学者は究極の理論を求め、その最有力候補となっているのが超弦理論だ。だが、もし真空中の光速よりも速いニュートリノが存在するとしたら、現代物理学のスキームは根底から崩れてしまう。そうなれば超弦理論の探究も無意味になる

 特殊相対論は、「真空中の光速はどの慣性系でも同じ」、「物理法則はどの慣性系でも同じ」、この二つの原理からなる。この二つの原理から、物理法則は、ローレンツ変換に対して不変で、さらに時空の並進変換に対する不変性と併せてポアンカレ変換に対して不変であることが導かれる。ポアンカレ変換に対する不変性から、この世界は、有限の静止質量を持ち真空中の光速よりも遅い速度でしか運動できない素粒子、静止質量0で真空中の光速で運動する素粒子、虚数の質量を持ち真空中の光速を超えた速度で運動する素粒子の3種類から成り立っていることが帰結する。そして、3番目の虚数の質量を持ち光速を超える素粒子(タキオンと称される)は、因果律や場の量子論の要請に矛盾するため、その存在は否定されており、最初の2種類の素粒子からこの世界は構成されると考えられている。そして、この考えは、これまで一度として揺らぐことはなかった。ところが真空中の光速よりも速いニュートリノがあるならば、この考えが間違っているか、あるいは、極めて高いエネルギー状態では、この考えが成立しないことになる。なぜならニュートリノは有限の質量を持っていることがすでに判明しているからだ。

 特殊相対論が成立しないとなると、(相対論的)場の量子論も成立しないことになる。また一般相対論も特殊相対論をその基礎として含むが故に成立しないことになる。つまり現代物理学の2大原理が揃って破綻することになり、物理学は根底から見直さなくてはならなくなる。そして、天文学、化学、生物学、地質学など自然科学のあらゆる分野が物理法則の真理性と普遍性を前提として展開されていることを考えると、自然科学全体の信憑性が揺らぐことになる。正に、自然科学界に緊急事態が発生している。いや科学者だけの問題ではない。全ての現代技術は物理学を基礎とする自然科学の理論を頼りに成り立っている。いささか大げさな表現をすれば、これは現代文明の存続を賭けた問題なのだ。

 勿論、逃げ道はある。古典力学や古典電磁気学は、今では、場の量子論や一般相対論の近似法則としてその地位が確立されている。厳密には、様々な物質の運動は、古典力学や古典電磁気学の予測とはほんの僅かだけずれている。しかし通常それが観測されることはなく、私たちの生活や産業活動に影響することもない。だから、多くの工場や建設現場では、今でも古典力学や古典電磁気学が使用されており、わざわざ量子論や一般相対論を用いる必要はない。勿論、量子論を使用する必要がある場面は多く、一般相対論も最近GPSなどで活用されている。それでも私たちが日頃目にする世界ではほとんどの現象が古典力学と古典電磁気学で説明が付く。その意味で、古典力学と古典電磁気学は、量子論と相対論を核とする20世紀の物理学革命で否定されたのではなく、正しい場所が見つけられたと言うべきなのだ。同じように、今回の発見で、相対論的場の量子論と一般相対論は、究極の理論の近似法則という地位を得ることになることがはっきりしたと考えることもできる。さきほどは今回の発見で超弦理論など究極理論の探究が無意味になると言ったが、そうではなく、今回の発見を手掛かりに究極理論の探究が急速に進展する可能性もある。

 だが、それほど楽観することはできない。有限の質量を持つニュートリノが真空中の光速よりも速いとなると、特殊相対論の基本的な考え方が根本的に誤っていたことになり、究極理論の近似法則となることすらできない可能性が強いからだ。古典力学や古典電磁気学が近似法則という地位を得られたのは、その基本的な考え方が整合的であったからで、基本的な考えに不整合があれば完全に退けられる可能性が高い。

 今回の発見が今後どのように展開していくか現時点では予測が付かない。この類の大発見は、過去の例を参照すると、結局間違いだったということで終わる可能性が高い。正直、上に述べた理由もあり、今回の発見が正しいとは極めて考え難い。物理学が根本的に否定されることになりかねないからだ。だが、その一方で、今回の発見が真実だったら、さぞかし楽しいことになるだろうと胸がわくわくする。科学の大革命の時代に私たちが突入したことを意味するからだ。ニュートンやアインシュタインを超える天才が求められる。いや時代が違うし、問題の難しさも比較にならない。天才の出現に期待することはできない。どんな天才でも人間である以上、一人でこの恐ろしく難しい問題を解くことはできない。おそらく膨大な数の世界の俊英たちと超高速のコンピュータが協力して謎ときに挑むことになるだろう。世界経済への好ましい影響も期待できるかもしれない。とは言え、やはり、結局間違いであることが分かる、あるいは適切な分析をすれば真空中の光速以下であることが分かる=特殊相対論は正しいということに落ち着きそうな気がする。しかし、いずれにしろ科学の世界は依然として謎に満ちていることを再確認した。科学の世界は斯くも楽しく素晴らしい世界なのだ。


(H23/9/24記)


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