☆ 選択公理と数学の本質 ☆

井出 薫

 集合論に選択公理という公理がある。「集合の集まりがある。それぞれの集合から一つの要素を選択して新しい集合を作ることができる」というのがその内容だ。有限個の要素からなる有限個の集合の場合は公理が正しいことは容易に分かる。たとえば3個の要素からなる3組の集合のそれぞれから1個の要素を選び1つの集合を作ることは簡単だ。{a,b,c}、{d,e,f}、{g,h,i}それぞれの集合からa,d,gを選択し{a,d,g}という新しい集合を作ることが出来る。このように有限集合だけに限れば、選択公理は自明の理だと言える。

 しかし、無限集合の無限個の組のそれぞれから1個の要素を選び新しい集合を作ることができるかどうかは定かではない。無限集合でも自然数の集合{1,2,3,4・・}のような簡単な集合(可算集合と言う)ならば、それぞれの集合から一番小さい数を選択することで新しい無限集合を作ることが出来る。しかし無限集合には可算集合だけではなく実数の集合のように連続の濃度を持ち最小数も最大数も存在しない集合が無数に存在する。しかも無限集合の数自体が連続の濃度を持つ場合は、選択するという操作を具体的に定義することができない。

 それでも具体的な選択の手続きを決めることができなくとも、選択公理は無限集合の集まりに対しても成立するとされている。
(注)逆に言えば、正しいことを示すことができないからこそ、集合論の公理の一つとして導入されている。

 普通に考えると、空集合でなければ要素が存在するのだから、任意の一つの要素を選ぶことは簡単だと考えられる。だから選択公理を集合論の公理として認めることはごく自然なことだと言える。数学の体系上からも選択公理を公理とすることで様々な定理が無理なく演繹することができるようになる。
(注)選択公理は独立な公理ではなく、他の公理から演繹される定理ではないかという疑問が浮かぶが、選択公理を定理として演繹することができるような自然な公理系は存在しない。それは集合から一つの要素を選択するという操作が極めて原始的なものであることを考えれば想像がつくだろう。

 しかし、選択公理を公理として認めることで常識に反する定理が導かれる。その例がバナッハ・タルスキの定理だ。バナッハ・タルスキの定理によると次のような不可思議な結論が導かれる。「半径1の球面をバラバラにする。破片を適当に貼り合わせると半径1よりも大きな球面にすることができる。」

 集合論の公理系に選択公理を導入することでバナッハ・タルスキの定理が集合論の公理系から導かれる。バナッハ・タルスキの定理はバナッハ・タルスキのパラドックスとも呼ばれる。半径1の球面と、半径1より大きい球面とでは面積が異なる。一つの球面をバラバラにしても、総面積は変わらないはずだから、それをどのように貼り合わせても最初の球面より面積の大きい球面になるはずはない。これは自明の理であるように思える。ところが、この常識は正しくないとバナッハ・タルスキの定理は語る。パラドックスと呼ばれる所以だ。

 実は、バナッハ・タルスキの定理は、破片を適当に貼り合わせるとより大きな球面になると主張しているだけで、具体的にどのようにバラバラにして貼り合わせればよいのかという質問には答えを与えない。つまり方法は不明だが、任意の球面を適当にばらして貼り合わせると、より大きな球面を作ることができると主張しているだけなのだ。実際ここが重要な点で、貼り合わせる具体的な方法が存在するのであれば、そこには明確な矛盾が存在することになる。なぜならば貼り合わせる方法が存在するのであれば、それぞれの破片は明確な境界があり面積を持つから、破片の面積の総和は最初の球面のそれを超えることはありえない。もし超えるのであれば明らかに論理矛盾であり、どこかに間違いがあることになる。つまり具体的な方法がないからこそ、一見パラドックスに見える定理が成立する。このことは定理の証明の根拠である選択公理の性格を受け継いでいると言ってもよい。選択公理も具体的な選択方法を与えないが公理として認められている。

 数学は知の象徴で、数学とは如何なる存在であるかという問題は古代ギリシャの時代から常に人々の関心の的だった。19世紀後半から現代まで、数学の存在性格について様々な議論が展開されてきた。論理主義、形式主義、直観主義、道具主義など様々な立場が提唱された。そして議論は今でも続いている。数学的プラトニズムという立場があり、それによると数学の公理や定理が成立する数学世界なるものが存在し、数学はその世界の真理を写し取ったものだとされる。もしこの立場が正しいとすると、一見矛盾しているように見えるバナッハ・タルスキの定理はこの数学世界の真理と考えることができ、現実世界に置き入れたときに現れる矛盾は解消すると言ってよい。しかし数学世界なるものがどこに、どのような形で存在するのか、どうすればそれを発見することができるのか、という肝心の問いに数学的プラトニズムは答えることができない。現実の物理的時空を超えた数学世界がどこかに実在するとしても、それを見た者は未だかつて誰ひとりとしていないし、これからも現れるとは思えない。数学的プラトニズムは数学の特異性を印象的に物語るが、説得力のある思想とは言い難い。数学的プラトニズムはバナッハ・タルスキの定理の不可解さを数学世界なるものに言い換えただけに終わると言ってもよい。

 数学を証明可能な体系とみなす形式主義と呼ばれる立場を採用すると、証明可能であることを以て、たとえそれが如何に不可解であろうとバナッハ・タルスキの定理を承認することができる。しかし、それは逆に「証明」という手続きに不可解な面があることを暴露することになる。しかもゲーデルの不完全性定理により「証明可能」という概念だけでは数学体系を(たとえ数論の分野に限っても)構築することはできないことが示された。

 一方、具体的な構成手順(@無限個の集合全てから一要素を選択して1つの集合を作る具体的な方法、A球面の破片を貼り合わせて、より大きな球面を作り出す具体的な方法)が存在しないことから、選択公理とバナッハ・タルスキの定理を認めることはできないという立場(直観主義など)も存在する。この立場は不可解な定理を拒否し常識に適った数学を展開するが、選択公理を肯定する数学体系と比べて数学の適用範囲を狭め、証明や計算が極めて複雑になるなど数々の難点があるため支持する者は少ない。

 ウィトゲンシュタインは数学の持つ道具的な性格を強調する。しかし数学が単なる道具ならば、具体的な手続きが存在しない選択公理やバナッハ・タルスキの定理を肯定する根拠は失われる。そして選択公理を拒否すると、直観主義がそうであったように数学体系は著しく縮小してしまう。

 数学の身分を明らかにするという課題は解決困難な難問だ。それは数学の基礎付けに関する論争の歴史が物語っている。しかし今では数学が極めて強力な道具であることに満足して、数学の身分、その根拠と背景を明らかにしようと試みる者は減ってきている。だがそれでもたとえ人々がそれを意識していないとしても、現代文明は数学の真理性(とそれに対する人々の信頼)に決定的に依存しており、それゆえ数学の身分の問題を無視する訳にはいかない。筆者は、数学の特異な存在性格は、自然の中に埋め込まれながらも、そこから一定の距離を置いて(社会という場を通じて)自然と対峙するという人間存在の特異性と密接な連関を持つと考えている。だが、これだけでは何の答えも与えたことにはならない。ただ問題を提起しただけだ。しかし、ここで提起した問題は、数学の本質の探究だけではなく、人間、社会、自然の本質を探究することに繋がる。現代数学は余りにも難解で、門外漢には近寄りがたいものがある。それでも古代ギリシャ時代と同じように、世界の本質を究めようとする者は数学を避けて通る訳にはいかない。そして、その手始めとして選択公理は格好の題材だと思われる。


(H22/8/21記)


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