☆ 資本論と未来(その1) ☆

井出 薫

 マルクス「資本論」を一言で要約しろと言われてもとてもできない。しかし、どうしてもと言われたら、こんな風に纏めることができるだろう。

「商品の価値は生産に必要な社会的平均労働時間で決まる(労働価値説)。資本とは自己増殖する価値体のことであり、労働者が生活の糧を得るために必要となる必要労働を超えて行う剰余労働を搾取することで実現する。なぜ剰余労働が資本に搾取されるのか。自ら生産手段を持たない労働者は生きるために労働力を商品として売るしかない。労働力は商品として売買されるから、労働力の価値は、(労働価値説により)生活必需品の価値の総額に相当する。つまり労働力商品の価値は必要労働時間(労働者の生活必需品の生産に必要な労働時間)になる。それゆえ資本家は正当な権利として労働力を必要労働時間に相当する賃金で購入し生産現場で消費する。ところで労働力という商品は自らの価値つまり必要労働時間を超えて労働することができる。しかし、この剰余労働時間は労働力が商品である以上、余剰として資本家の手に落ちるしかない。資本家の手に落ちた剰余労働時間は、流通過程で剰余価値として現実化し(=資本(=価値増殖)が実現し)、利潤、利子、地代として資本家など支配階級の間で分配される。剰余労働搾取は資本主義の絶対条件であり、資本主義が存続する限り労働者は搾取から逃れることはできない。」

 「一言」とは言い難い文章だが、これが労働価値説を前提とする剰余労働価値学説を全体系の根幹とする資本論の要約だと言っても差し支えないだろう。このマルクスの理論は多くの人々の熱狂的支持を得て、良くも悪くも人類の歴史に巨大な足跡を記すことになる。

 旧ソ連・東欧諸国や文化大革命時代の中国、ポルポトのカンボジアなど共産主義政権下における恐るべき血の粛清や人権侵害、90年代初頭の旧ソ連・東欧の共産党政権崩壊で、マルクス「資本論」への熱狂は完全に冷めた。同時に、冷静に「資本論」を分析すれば、多くの欠陥があり、その体系を歴史と社会の揺るぎない基盤などとは到底言えないことも明らかになった。とは言え、共産主義との闘争に勝利したと自惚れていた資本主義が、格差拡大と貧困、国際紛争、環境破壊などの人類史的重要課題を解決する能力を欠くことが明らかになった現代、マルクスの偉大なる思想、特に「資本論」を再吟味することが不可欠の課題となっていることを忘れてはならない。

 吟味すべき問題点は多数あるが、根源的な問題を二つ挙げることができる。一つは労働価値説の妥当性、もう一つは、本当に労働者は必要労働相当分しか手に入れることができないのかという問題だ。本稿では後者について簡単に論じる。

 労働力が商品として売買されることは資本主義の根幹をなす。資本家あるいは企業が自由に労働力を購入することができなければ資本主義は成り立たない。事実、資本主義社会においては、労働者は自分が所有する労働力を商品として市場で売買しなくてはならない。しかし労働力という商品は他の商品とは全く異なる性格を有する。自由に生産量を調整することができないだけではなく、ものを言う商品だという点で、他の商品と決定的に異なる。鉄の塊は価格が幾らであろうと文句を言うことはない。しかし労働者は自分の賃金に不満を持ち、結束して資本家や経営者たちに賃上げを要求しストライキを実行することもできる。会社が潰れたら元も子もないという弱みがあり妥協を余儀なくされることが多いとは言え、労働力商品の価値が必要労働時間相当分に制約されると考える必要はない。これが多くの者が抱く疑問と言ってよい。サミュエルソンは、この点に関連して、マルクスの剰余労働価値説は妥当な理論とは言えず、社会的福祉を増大させるという経済学の究極の目的に役立たないと論評している。

 マルクスは、労働者は貧しく身体的にも文化的にも資本家に対して劣勢で、資本主義的イデオロギー(たとえば労働者が貧しくなるのは人口が急増するからだなどという思想)に洗脳され搾取を自然法則の現れだと錯覚する。それゆえ、労働者は単発的にストや暴動を起こすものの成功せず弾圧されて終わる。しかしマルクスは永遠にそうだと言っているのではない。いつか必ず労働者たちは目覚め団結して決起する。そして遂に資本家たちを社会から駆逐し自らが社会と歴史の主人公となると予言じている。要するに、マルクスにとって選択肢は二つしかない。労働者が搾取に甘んじるか、あるいは資本主義が倒されるか、この二つ以外の選択肢はマルクスの視界にはない。だが少なくとも先進国の歴史は、第3の道が存在していることを示しているように思われる。労働者たちの力はけっして弱くはなく、企業は利益優先で労働者を酷使することは困難になっている。政治家は誰もが労働者の味方であるかのように振る舞い、実際ある程度は労働者の権利保護のために働く。さもないと選挙で落選して政治家という身分を失ってしまうからだ。しかも現代の大資本の支配者たちの多くは生まれながらの資本家ではなく労働者からのし上がった者がほとんどを占める。逆に資本家が落ちぶれて労働者となることも珍しくない。さらに、多くの労働者が貯金や株式など有価証券を所有し、労働者であるとともに間接的に資本家的な役割を果たしている。こういう一連の事実はけっして派生的、偶発的な出来事ではなく、現代的な資本主義という社会体制の本質をなす事象とみなす必要がある。従ってマルクスの二者択一論は正しくないと言わなくてはならない。
(注)マルクスは資本主義的生産様式が支配的になる条件を三つ挙げている。無産でかつ自由な労働者(生産手段から自由=無産、かつ、身分制度から解放され自由に労働力を処分できる者)が存在していること、蓄積が進み資本として機能する規模に達していること、この二つを挙げ、さらにそれと並んで、搾取が自然法則のように不可避なものだと、労働者階級が考えるようになることを条件として挙げている。資本主義における労働者の悲惨な生活環境は変更することができない自然法則ではないことをマルクスははっきりと認識している。しかしながら、マルクスは、可能な変革の道は極めて限定されており、共産主義革命という道だけが未来を示すものだと考えた。

 マルクスが生きた19世紀という時代、労働者は現代とは比較にならないほど貧しく、民主制も、人権思想とそれを支える法体系や組織も未熟で十分に機能していなかった。資本主義体制に移行したと言っても当時はまだ封建制・身分制的な社会構造が各方面で色濃く残っており文化的にも前近代的な要素が払拭されていなかった。そのためにマルクスは第三の可能性を現実的な選択肢と考えることができなかった。つまりマルクスの思想的限界は時代の制約によるものだったとみることができる。

 しかし、マルクスがこのように考えた理由はそれだけではない。もう一つの問題、つまり労働価値説がここで絡んでくる。労働価値説が正しいとする限り、二者択一しかあり得ないという帰結が導かれると思われる。さらに、上では第三の選択肢が存在し、それが実現していると論じたが、それが妥当な現代社会に対する評価なのかという疑問が残る。つまり私たちは資本主義的なイデオロギーに惑わされ現代社会では労働者の所得は必要労働時間に制約されていないと思いこんでいるだけなのではないかという疑念が払拭されていない。そこで、次回は労働価値説とその帰結について論じることにする。


(H21/8/24記)


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