☆ 数学から見る世界の統一性と多様性 ☆

井出 薫

 数学の世界は信じられないくらいにバラエティに富んでいる。紐の結び方や一筆書きの問題がトポロジー(位相空間論に基づく位相幾何学)という数学になる。身の回りに無数に存在するありふれた不定形な物体、古代ギリシャ人が賛美した幾何学的美しさとは懸け離れた複雑で奇妙な形がフラクタル幾何学でうまい具合に表現される。幾何学、代数学、解析学、集合論と位相空間論、それぞれ独立に発展を遂げてきたが、代数と幾何はデカルト以来互いに不可分の関係となる。さらにガウスやリーマンなど偉大な数学者たちにより幾何学と集合・位相空間論は多様体論へと昇華し、20世紀に入ると、代数幾何・代数多様体の研究が進展する。アインシュタインの一般相対論はリーマン幾何学なしには存在し得なかったが、逆に一般相対論や量子論により様々な新しい数学分野が活性化される。ヒルベルト空間論や超関数などの関数解析、多様体論、非可換代数、無限次元リー群・リー環、量子群、非可換幾何学など多様な数学が物理学革命に刺激されて一斉に花開く。その一方では、指数定理が解析学と幾何学との根源的連関を示し数学の統一性を明らかにした。その指数定理は現在では純粋数学の枠を超えて物理学でも大きな役割を果たすようになっている。このように数学は極めて多様で広大かつ複雑な世界を形作るが、その一方で統一性を維持する。この多様性と統一性の背景に在るのは物理学であり天文学であったが、20世紀を代表する天才数学者ヒルベルトのような形式主義者を除くと、大多数の数学者は数学とはそれ固有の存在である数学世界の真理を探究する学問だと考えている。物理学が物理世界の真理を探究するように数学は数学世界を究めようとする。しかし、このような多様で複雑な数学の世界が統一的な観点から把握できるのは、数学世界が独立して存在するからではなく物理的世界と共に存在するからだと考える方が理に適う。数学の統一性は物理世界の統一性に基礎づけられる。

 数学は天体観測や測量などに始まり、西洋近代においてデカルト、ニュートン、ライプニッツなどにより物理学と密接な関連を保ちながら現代的な数学へと進化していく。そして数学と物理学のこの密接な関係は現代においても変わることはない。物理学の究極理論と呼ばれるスーパーストリング理論(超弦理論)とM理論では、四半世紀前までは物理学と全く無縁と思われていた抽象的代数幾何が重要な役割を果たすことが明らかになった。その一方で、超弦理論の研究成果から数学の新しい研究分野が誕生する。これは超弦理論に限った話しではない。統計物理学、マクロの量子系、低次元量子系、流体力学、非平衡統計物理学、複雑系などでも、数学が物理学研究の最大の道具であると同時に物理学が数学研究に不可欠なアイデアの宝庫となっている。このように、数学世界なるものは独立して存在するわけではなく物理世界と共存している。数学のさまざまな分野が統一的な視点から理解されるのは詰るところ物理世界の統一性に基づいていると考えることができる。

 しかし、それでは世界とは物理世界を意味し数学がその最良の表現であり、他の学問分野が表現する世界は物理世界の一部に過ぎないと言ってよいのだろうか。それは世界とは物理世界であり、世界の統一とは物理学と数学の統一性により表現されることを意味する。だがそれは正しくない。「生命」を考えよう。生命体の活動を物理学は記述し説明することができる。将来の行動や変化を予測することもできる。しかし、「何が生命で、何が生命でないか」を物理学はけっして説明することができない。生命体も、無生命体も、物理学からすれば、無数に存在する物理的系の一つの事例に過ぎない。つまり物理学においては生命体と非生命体との間には何の境界線も存在しない。しかし人間にとって生命体(生物)と無生物の違いは決定的な意味を持つ。それゆえ、両者を単なる系の集合状態の違い、系を特徴づける指標の違いとしてしか説明することができない物理学は、明らかに学問として完全なものではない。これからも物理学は進歩して、生命体の活動をより正確に説明し予測することができるようになるだろう。それでも、そもそも生命と非生命をどう区別するのかという根源的な問題に物理学が答えを与えることはできない。寧ろ何が生命体かという生物学的な理解が先行し、それから初めて物理学による生命体の研究が可能となる。物理学の世界は確かに基礎的な原理や法則で統一されているが、それは世界を全て覆い尽くすことはなく、一つの側面を描き出しているに過ぎない。それゆえ生物学や情報科学のような特殊な学問分野も物理学と同じ権利で自らの世界の実在性を主張することができる。数学もまた物理学の道具という地位から、あらゆる学の基礎と方法というより広い場所へと移行する。事実、生物学と生態学は数学に支えられながら、同時に、新しい数学を生み出した。生物学だけではない。20世紀には、コンピュータ科学が情報理論や計算理論を、経済学がゲームの理論などを生み出した。フーリエ解析やラプラス解析、ウェーブレット変換などは工学から生まれ、工学と共に発展してきた。このように数学はもっぱら物理学とだけ関連し、他の学は物理学を通じて間接的に数学と関わりを持つというわけではない。そもそも数学の原点である「数」、さらには代数の発展に不可欠な「0」の発見(発明?)の背後には商業があったことを忘れてはならない。

 物理世界は唯一無二の世界そのものではない。生物学の世界、経済学の世界、情報科学の世界、さらには日常の政治経済活動の世界など世界は多様な顔を持つ。そして、それぞれの顔に対して個別の学問が対応し、これら多様な学問の全てと数学は深い関係を結んでいる。このようにして、数学は個別の学問を通じて多様な世界を表現し、その多様な姿を露わにする。

 しかし最初に述べたとおり数学の諸分野を統一的に理解することができる。そのことは、数学を媒介項として、生物の世界、経済現象の世界、日常生活の世界などが物理学に還元されることを意味しているのではないだろうか。つまり多様な世界という様相は諸現象と諸存在の物理学との連関を十分に理解できない人間が仮設した幻想的世界像に過ぎないのではないか。こういう考えは広く存在し、魅力的ですらある。世界を統一的に理解することは常に人々の夢だった。

 だが、そのような考えは成立しない。繰り返しになるが、生命体が何であるのかという、この単純だが、根源的とも言える問いに物理学は答えを与えることができない。生命体が何であるか人々のコンセンサス(それは現代においては生物学の知見に大きな影響を受けている)が出来てから初めて物理学は生命を考察することができる。物理学は世界を決めるのではなく世界が決まってから機能する。

 こうして世界は再び多様で混沌とした存在へと回帰する。世界は統一体なのか、多様な混沌なのか、こういう問いにはウィトゲンシュタインならば擬似問題だという(否定的な)批評を下すだろう。しかし、この問いはけっして不毛な言葉遊びではない。ウィトゲンシュタインは、「世界とは多様でかつ統一的なものである」などと述べただけでは少しも課題は解決しないことを警告しているに過ぎない。

 世界は統一的に存在していると考えてよい。しかし有限な人間はそれを完全に認識し制御することはできない。その都度、様々な方向から様々な道具を使って世界を理解しそれを利用するしかない。そこから数学が生まれ、物理学が生まれ、生物学が生まれる。その背後には生産活動、商業活動、消費活動、それら諸活動の場所である共同体と共同体を支える諸制度が控えている。このような多様で複雑な構造を通じて人々は世界と接している。その接点において現れる学の姿は様々で、しかも、それが把握するものはけっして世界そのものではない。だから、諸学問は、数学を始めとして、決して完全な統一体をなすことはなく、一つの原理に還元されることもない。しかし、それでも人間が環境を通じて接する世界とは統一的な何か、一者とでも呼ぶべき存在だと考えてよい。その間接的な効果として、数学の諸分野に統一性がもたらされ、物理学など他の学と数学との分かち難い連関と統一性も生み出される。なぜなら、人は、世界と関わるとき、けっして数学だけを用いるわけではなく、他の学や道具を使い、さらに共同体の中において他人と協力して世界と接触するからだ。そこには対象世界と他者との関わりを通じて必然的に様々な連関が生じる。その連関は、片や対象世界の統一性に基づき、他方、人間社会と人という生命体の一般性に基づき生じている。

 これまでも幾度となく述べてきたとおり、私たち人間の活動は(学問的認識活動を含めて)全てモデル・道具を介したモデル・道具の生成という構造をとる。モデル・道具は有限であり、対象世界そのものではない。モデル・道具と対象世界との間には解消できない差異が必ず存在する。それゆえモデル・道具は人間と人間社会の在り方により多様な姿を取ることになる。このことが世界の統一性と多様性の共存という外観を生み出している。

(補足)対象世界が統一性を持つ「一者」的存在であることはどうやって認識するのかという難問がある。これに対しては、物理学をその典型とする極めて一般的、普遍的な学問的モデル・道具が現実に存在することが世界の統一性(一者)を示唆するとしか答えようがない。だが、私たちの議論にとってはそれで十分と言える。そして、それ以上に深く分析することはできない。


(H21/7/18記)


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