☆ 同一性と差異、言葉と想像力 ☆

井出 薫

 学生の頃、論理学の講義でこんな話しを聞いた記憶がある。「動物は差異に敏感だが、人は同一性に敏感だ。同一性を認識することが思考の本質だ。」

 確かに、月の運動とリンゴの落下が同じ法則に従っているなどということは、人以外の動物には思いもつかないことだろう。「月とスッポン」ではないが、ふたつは天と地ほどの差がある。全く違うものに同一の法則を発見する、考えてみると、これは驚異的なことだ。なぜ、そんなことができるのだろう。

 想像力、これが一番重要だ。ありえない状況、たとえば、紐で縛った月を私が回している、人はこういう情景を想像することができる。ここで月をリンゴに置き換えることは容易だ。そして次は紐が切れてしまったところを想像する。紐から離れたリンゴはいずれ地面に落ちる。こういう一連の推理で、月とリンゴの運動の共通性を推察することができる。アインシュタインが一般相対論を発見したときにも、自由落下するエレベータと無重力状態にあるエレベータを比較するという思考実験で等価原理を探りだし、それを手掛かりとして一般相対論を生み出した。人には他の動物にはけっして真似ることができない想像力が備わり、それが異質なものに同一性を認識することを可能にしている。

 だが想像力だけでは十分ではない。言葉がなければ如何なる理論も成り立たない。高度に分節化された汎用的な言語、特に文字を発明したことで、想像力を駆使して推察した結果を一般化すると同時に、他人に伝承し、自分以外の者がそれを再認識することが可能となり、普遍的な理論が成立する。しかも言語には、違う物や出来事を同じ言葉で表現できるという性質があるため、言葉を使用すること自体が、違うものに同一性を発見する切っ掛けを与える。そもそも人が持つ高度な想像力は文字や絵画を描くことから進化したと思われる。

 高度な想像力と言語により、人は同一性を発見する能力を高め、高度な文明を生み出した。ただ想像力と言語には相反する面がある。想像力は、違うものを同じものに変えるだけではなく、同じものを違うものに変えることができる。寧ろ想像力の本質は違うものを生み出す(差異化する)ことにある。一方、言葉は違うものを同じものに還元するだけで、(想像力の助けを借りない限り)それ自身では差異化することは難しい。つまり言葉の本質は同一化することにある。

 人はしばしば自分の常識、自国の常識を全員共通の常識、世界の常識だと錯覚し諍いを起こす。これは(同一性の認識をその本質とする)言語使用の性格に根差すと言ってよい。一方、(差異の生成をその本質とする)想像力はありもしない出来事を空想することで時として人を苦しめ、誤解や猜疑心を生み出す。

 このように相反する傾向を持つ想像力と言語を上手に使い分けることで、同一性と差異を調和させ、平和で楽しい生活が実現する。ところが、これが現実には甚だ難しい。人の能力にはまだまだ改善の余地がある。



(補足)
 「言語」は差異の体系で、同一性の体系ではないという反論があるだろう。言語体系自体は確かに差異の体系とみなされる。「机」は「椅子」や「床」など他の言葉と違うことを通じて「机」固有の意味を持ち、「A」は「B」とも「C」とも異なることで「A」固有の地位を占める。しかし、言語が生み出すものは差異ではなく同一性だ。そのことは、最も普遍的で確実な真理をもたらすと広く信じられている数学を考えれば分かるだろう。数学は広義の言語体系に属し、たとえば、厳密に言えば同じものが一つもない(現実世界の)無数に存在する不完全な三角形を唯一無二の理念的な三角形へと還元(=同一化)する。

(H20/8/29記)


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